京都発見 一箭しのぶ

【2012年度 京都発見】


京都発見 --- ランドスケープデザインコース 一箭しのぶ




(1)はじめに

 「京都」といえば、一番初めにどんなイメージを思い浮かべるだろう?
神社仏閣? 舞妓さん? 町家? 和菓子?
 人によって様々なイメージを思い浮かべるだろうが、私の思い浮かべるイメージは「水」である。
京都の風景、街並みを思い浮かべると、そこにはいつも「水」があるように思う。「水」は川を流れる水だけでなく、井戸水や、露地を濡らす打ち水、庭園の湿気など、かたちを変えていつも京都の街を包んでいるような気がする。
 そんなわけで、「水」のかかわる場所を巡ってみた。

(2)体験報告
【一日目】
①琵琶湖疎水記念館
 京都の資源としての水「琵琶湖疎水」の竣工100周年を記念して平成8年に開館した施設で、疏水に関する資料が展示されている。
 琵琶湖疏水は、明治維新による東京遷都により衰退した京都に活力を呼び戻すために計画された。琵琶湖の水を引き、水力発電を行い、電車を走らせ、新しい工場ができ、船での流通が盛んになるなどして京都の活力を取り戻した。第二工事の際には水道と市営電車を開業し、今日の京都のまちづくりの基礎が出来上がった。京都にとっての琵琶湖疏水は、明治から現代にいたるまでの「命の水」なのである。
 館内の資料もさることながら、私の一番のお勧めは施設の目の前を流れる本物の琵琶湖疏水である。訪れた当日は激しい雨で水かさが増して、轟々と濁流となって流れる様子を目の当たりにし、「なるほど、こりゃ電気も作れれば、街も栄えるわ!」と納得し、そのパワーに圧倒された。
 それと同時に京都人の「奈良の二の舞になってたまるか!」という凄まじい執念のような思いも感じ取ることができた。

  写真1
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  疏水記念館から動物園方面を撮影

  写真2
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  疏水記念館B1テラスより撮影


②無燐庵
 無燐庵は明治時代に山県有朋が京都に造営した別荘である。
その大半を占める庭園は山県自らの設計・監修により、京都を代表する造園家・7代目小川治兵衛が作庭したもので、ゆるやかな傾斜地に東山を借景とし、疏水の水を取り入れ、三段の滝、池、芝生を配した池泉回遊式庭園である。
 疏水の水は、ダイナミックな滝から、なだらかな池になり、薄暗い渓流のようなカーブを経て小川となり、深みのある森の奥に流れていく…といったイメージで様々な表情を見せる、まさに疏水あっての庭園だ。
 当時、疏水の水を庭に引き入れることを考えついた山県有朋は本当に優れたアイディアと美的センスの持ち主だと思えてならない。

  写真3
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  無燐庵庭園入ってすぐの流れを撮影 

  写真4
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  無燐庵母屋から東山方向を撮影

  
③並河靖之七宝記念館
 明治から大正期にかけて活躍した、日本を代表する七宝家並河靖之の自宅兼工房が並河靖之七宝記念館である。白川のせせらぎの手前に建つ古い家で、庭園は隣同士で親しかった7代目小川治兵衛が作庭した。七宝の研磨のために引いた疏水を池にも引き込み、狭いながらも無燐庵とは違った個性的な雰囲気の、躍動感あふれる庭園だ。
 初めは、七宝には興味がなく、庭が観たくて訪れたのだが、並河靖之の作品を目の当たりにして衝撃を受けた。今まで私が目にしてきた七宝とは全く違った、美しく、繊細なものばかりで、一瞬にして心奪われてしまった。このような美しい作品が生まれたのも疏水の水があってこそ。京都の文化を育む疏水のすばらしさに感動した。
 
高瀬川
 高瀬川安土桃山時代末期の慶長年間に開削された運河で、ここから伏見の港までをいわゆる「高瀬舟」が往来し物資を運搬した。航行する船は船底の浅い平らな、幅のある浅川用のものを利用し、流れが急で水深が浅いため棹は用いず、綱で舟を引き上げたといわれる。
 高瀬川起点には一之舟入跡が残され高瀬舟が展示されている。このような舟入

 二条から四条の間に七ヶ所あったが埋め立てられ今は無いらしい。また、高瀬川の始まりの水を引き込んで造られた、旧角倉了以邸(現・がんこ高瀬川二条苑)の庭園も見ものである。この水はこの庭に引きこまれたのち、木屋町通り沿いを南下し、繁華街を貫いて流れてゆく。今では京都を代表する風景の一つとなっている。

  写真5
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  木屋町通から一之舟入跡を撮影

  写真6
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  旧角倉了以邸庭園・隣のビルから撮影

    
⑤キンシ正宗・桃の井
 キンシ正宗堀野記念館中庭からコンコンと湧き出る名水「桃の井」。キンシ正宗の造り酒屋としての礎を築き、淡麗な切れ味を持つ数々の名酒を生み出してきた「命の水」だ。京都の食文化はこのような井戸水(地下水)が育んでいる。

⑥錦天満宮錦市場・錦の水
 錦天満宮は、京都の台所として知られる錦市場の東の端にあり、商売繁盛の御利益がある神社だ。その神社の一角にある井戸が「錦の水」だ。
 この水は錦市場が誕生したきっかけでもある。平安時代の頃からこの一帯は地下水に恵まれ、魚・鳥などを保存するのに適していると、魚店が自然発生的に集まるようになったのが錦市場の始まりだそうだ。
 今日も活気あふれる錦市場は、この「錦の水」に支えられている。

  写真7
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  錦天満宮入り口を撮影

  写真8
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  錦の水



【二日目】
①換骨堂・蓮華水
 真如堂の北東にある尼寺・換骨堂は号を東向山蓮華院といい、その中にある井戸が「蓮華水」だ。戒算上人が本堂建立中に蓮華童子の教示によって発掘されたと伝えられている。その功徳により火災が起きなかったといわれている。そのため「功徳水」ともいわれている。
 昨日とは打って変わって日差しが強く、汗だくになりながら道に迷い、急な坂道を上ってやっとたどり着くことができた。地元の方に教えていただいた階段を登ると、本堂の裏手に出ることができた。辺りは鬱蒼としていて涼しく、何とも言えない良い香りが立ち込めていた。菩提樹の花が満開だったのだ。
 わりと朝早かったのにもかかわらず、多くの地元の方が訪れていた。
 
下鴨神社・御手洗の水
 「下鴨神社」、正式名称「賀茂御祖神社」は「上賀茂神社」と共に「賀茂社」と呼ばれ世界遺産に登録される、京都最古の神社とされている。その「下鴨神社」の末社「御手洗社」は、井戸の上に建立されていて「井上社」とも呼ばれている。「御手洗社」には罪や穢れを祓い除くという瀬織津比売命が祀られており、御手洗池に足を浸して心身を清め、御神水を飲んで穢れを祓うと病気に罹らず延命長寿になると言い伝えられている。おなじみの和菓子「みたらし団子」は「御手洗社」前の「みたらしの池」に湧く「水のあぶく」を人の形に摸したお菓子が発祥だそうだ。
また、下賀茂神社の境内に広がる原生林「糺の森」には4つの小川が流れていて、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。古くから親しまれているこの小川では、様々な和歌が詠まれている。
 薄暗い森の中を、やさしく、さらさらと流れる小川を見ていると、心洗われるような気持ちになる。

  写真9
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  下賀茂神社内御手洗社

  写真10
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  下賀茂神社内「糺の森」の小川(どの小川かは不明)



出町ふたば(和菓子屋)
 下鴨神社から京都御苑に向かう途中、偶然、豆餅で有名な和菓子屋「出町ふたば」を見つけた。超人気店だけあって、2重の行列ができていた。食いしん坊の私はまんまと行列に加わり、順番を待っていた。夏のお菓子として「くずまんじゅう」と「みぞれもち」が店頭に並んでいた。どちらも「天然水使用」となっていたので、京都の地下水を使用しているのかと思いきや、実は違うらしい。せっかく京都の老舗なのだから、京都の水を使用してほしかったと、思いながらもしっかり購入し、先を急ぐ。

京都御苑・梨木神社・染井
 京都の三名水(醒ヶ井、県井、染井)のひとつである「染井の井戸」が神社の境内にある。この井戸はかつて文徳天皇の皇后明子の方の里御所の跡にあったもので、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたという由緒がある。
 甘くまろやかな味で茶の湯にも適し、今も京の名水として知られていて、私が訪れた日も、たくさんの人が水を汲みに来ていた。
 
(3)発見したこと
 二日間を通して、京都の「水」をテーマに巡ってみたが、「水」の中にも2種類の「水」があることを発見した。
 ひとつは「生活のための水」、もうひとつは「神聖な清めの水」である。
「生活のための水」は京都の衣食住すべてを支える、なくてはならないもので、現在の京都の文化は疏水の水や、鴨川の水、各地から湧き出る井戸水によって育まれたものだといっても過言ではないと思われる。まさに京都の「命の水」だ。
 もうひとつの「神聖な清めの水」は、京都の神社仏閣で受け継がれる由緒ある「水」で、古くからさまざまな神事を行い、罪や穢れをはらい、無謀息災を祈るなど、人々がそれぞれの思いを託した「心の水」のように思われる。
 その二つの水に守られているからこそ、京都の街は、いつまでも、瑞々しく、世界中の人々の心を魅了してやまないのかもしれない。

(4)おわりに
 今回は限られた時間で、急ぎ足で各地を巡ったが、どの場所も大変魅力的で、興味深く、中には、今まで何度も訪れているのに、また新たな発見をした場所もあった。
 京都は、知れば知るほど面白い。
今回は「水」をテーマに巡ったが、今度は「水に関する神事や伝説」などを調べてみたいと思う。二日目のグループワークの際に中路先生の「お話」をきいて、恐ろしくなったと同時に興味がわいてきた。なぜ、古くから人は、「水」に想いを託すのだろう、と。
今後の課題である。


 

 

『ヘルダーリン詩集』 --- 歴史遺産コース 白神舞

【2012年度 詩と音楽への案内】

ヘルダーリン詩集』 --- 歴史遺産コース 白神舞



(1)はじめに
 ここで取り上げるのは、『ヘルダーリン詩集』の中の一篇「自然へ」である。一読すれば、喜びと喪失の嘆きという要素は理解できる。しかし、何度も読み返すうちに、この詩篇の内容を自分が表面的にしか理解できていないことに気付く。表面的なストーリーは理解できても、細部に関しては、読む度に発見があり、疑問が増え、解釈も変化していく。
 ここでは「あなた」とは誰か(何か)、ということと、「亡びた」のは何か、ということを中心に考察を進める。特にこの二点が、この詩篇の内容を理解する上で重要なポイントだと思われるからである。

(2)「あなた」とは何か
 まず疑問に思うのは「あなた」とは誰か、ということである。もちろん、タイトルが「自然へ」なのだから、「あなた」とは「自然」であると推測できるのだが、では、ここでいう「自然」とは一体何か。はたして、どういう存在に向けて「あなた」と呼びかけているのか。ヘルダーリンの言う「自然」とは、どういう存在、どういう概念なのか。
 訳者の川村二郎氏は、ヘルダーリンにとって「自然」は重要な要素だが、その定義は一義的ではないとする。もとより、「自然」の概念を明確に定義するのは難しい。「自然へ」における「自然」は、「あなた」と呼びかけられている点から、擬人化されていることは分かるが、「あなた」「自然」がどういうものなのかが、段落が進むごとに、読み込むごとに、ぼやけていく。
 「信仰篤く」「春を神のメロディーと呼び」「示現した」という言葉から、「自然」とは「神」である、と解釈したが、「神」もまた、定義が難しい。「自然」と「神」と言えば、日本古来の自然観が思い浮かぶ。自然界のありとあらゆるものに神性を見出し、敬う。仏教伝来後に擬人化されたため、様々な「神」が創造され個性を付与されることとなったが、もともとは、ずっと曖昧な「神々」だった。ヘルダーリンの自然観が日本古来の自然観と近いものだったのかどうかは分からないが、「自然へ」における「自然」には、日本古来の「神々」という観念がふさわしいように思える。
 しかし、「その時あなたは示現した」という表現で行き詰ってしまう。この部分から、「あなた」は、正確には「自然」ではなく「自然の魂」であると分かる。では、「自然の魂」とは一体何か。単に「自然」と戯れているだけでは「示現」せず、「心を感じる時」「見出した時」「揺れた時」に「金色の日々」に「抱きしめて」もらうことができ、「沈みこんできた時」「閉じこめた時」「めぐり飛んだ時」に「示現」するのが「自然の魂」である。これらの条件から、「自然」の中に何かを感じている状態である、と分かる。ただぼんやりと「自然」の前にいるのではなく、「自然」の起こす様々な現象に対して、何かを感じて何かを見出している状態において、「自然の魂」は「示現」する。その何かとは、やはり神性だろうか。より正確に言えば、「神の愛」といったものかもしれない。神の愛に包まれていることを実感できているから、「美の光」「美しい充溢の世界」を味わい、「無限の腕」に抱かれ、「愛のこよない果実」を「心行くまま」に楽しむことができる。清らかで美しく、鋭敏な感性を持つ少年の姿が思い浮かぶ。
 つまり、「自然」それ自体は、自分をとりまく自然界のあらゆる事象、といった意味だが、その中に、「神のメロディー」、「金色」の光、神の愛、そういった美しく暖かいものを見出した時に「自然」はただの「自然」ではなく「自然の魂」となる。ここでいう「神」は、どこか一神教の神をイメージさせるが、「父神の殿堂」という言葉から、ギリシア神話の神々を想定しても良いかもしれない。

(3)何が「亡びた」のか
 中盤、「自然の魂」の「示現」に「酔いかつ涙し」、「美しい充溢の世界」へ「溶け入った」喜びを歌うが、「生の乏しさを私から隠し」「わが手の及ばぬもの」といったあたりに、翳りを予感させる。そして「今は亡びた」に至る。「亡びた」のは、「私をはぐくみ育てたもの」「若やかな世界」であり、「若い日の金色の夢」である。
 最初は、「自然の魂」を感じられなくなった自分、つまり神の愛を実感できなくなった自分、その嘆き、といった解釈をしたのだが、「春はわが憂いになお/かつてと同じくやさしい慰めの歌をうたう。」とあることから、「今」も、「春」に「神のメロディー」を感じているのではないか、と考えた。「神のメロディー」を感じられるなら、「自然の魂」も感じられるのではないか。にもかかわらず、明らかに喪失を嘆いていることが伝わってくる。では、何が「亡びた」のか。
 「私をはぐくみ育てたもの」「若やかな世界」「若い日の金色の夢」は「あどけない金色の夢」「金色の日々」と同義だろう。それが示すのは、「歓喜の霊」「自然の魂」の「無限の腕」に抱かれた「美しい充溢の世界」、そこでは「時代の中の孤独」は消えて、「すべての存在とともに」、「大洋」に溶け込むかのような一体感が得られる。それは「生の朝」であり「心の春」であり、「喜びの日々」だった。これはどういう状態なのか。
 「時代の中の孤独」の「時代」とは、何か大きなうねりのようなもの、個人の領域をはるかに越えた悠久の時間の流れ、といった意味なのではないか。その中で感じる「孤独」には、自分という存在の小ささ、無力感、不安などが含まれるだろう。「はるかな裸の荒野」「雲の夜が私を閉じこめた」「長いさすらい」から推察できる。その「孤独」が「歓喜」に変わるのは、「自然の魂」との一体感と同時に、「すべての存在」との一体感を得たからではないか。一体感を得るには、ある種、無我の境地に至ることが求められるだろう。自分が自分が、という状態では、「すべての存在とともに」あることは難しい。我が強い状態では「孤独」も強く感じられるが、自分は「大洋」の一部分なのだ、「自然」の一部分なのだ、と思えたら「孤独」はなくなるだろう。
 そうした境地は、「わが手の及ばぬもの」だったのだろうか。前半では「金色の日々」だったのが、後半は「金色の夢」に変わっている。そうした境地は長続きしない「夢」のようなものだった、という嘆きを感じる。「自然」の中に神の愛を感じられなくなった嘆きというよりも、一体化できなくなった嘆きと考えた方が的確なのではないか。
 なぜ「亡びた」のか、具体的に知らされることはないが、成長していくに従い、我が強くなり、「大洋」の中に溶け込むことは難しくなったからかもしれない。ヒントになるのは「生の乏しさ」だろうか。「生の乏しさ」とは、現実の厳しさ、人間の持つ負の側面、成長していくに従って否応なく出合うあらゆる困難、といった解釈が可能だろう。「若い日の金色の夢」とは、「自然の魂」の「無限の腕」に抱かれ、「美しい充溢の世界」に溶け込んでいることができた「金色の日々」であると同時に、「若い日」に抱いていた人生に対する希望や憧れという意味での「金色の夢」でもあるのではないか。
 そして、「故郷」は遠くにある。「亡びた」のではなく、遠ざかった。「故郷」とは、「金色の夢」を見ていられた頃、「金色の日々」を指すと考えたが、「故郷」は亡びていないから、これは違う。「故郷」とは、「美しい充溢の世界」を指すのではないだろうか。「すべての存在とともに」、「無限の腕」に抱かれていられる場所が「故郷」であり、それ自体は亡びていない。自分が「生の乏しさ」を知ったことやその他の要因から、もう行くことができないと思い込んでいる場所、今は「その夢」を見ることしかできない場所、それが「故郷」なのではないか。

(4)おわりに
 現時点で、「自然へ」は以上のように解釈できた。紙幅の都合もあり、特に重要と考えられるポイントに限定せざるを得ず、この奥深い詩篇の理解にはまだまだ不十分と感じている。例えば「我らが」という表現や、前半部分の細部、あるいは「心のよき芽」など、考察すべきポイントはまだいくらでもあり、今後も繰り返し読み込んでいきたい。おそらく理解はさらに変化していくだろう。ひょっとしたら現時点での理解の浅さに失望することがあるかもしれない。しかしそれこそが、「時間芸術」の持つ魅力である。(本文3316字)


参考文献
川村二郎訳『ヘルダーリン詩集』岩波文庫、2002年

 

詩と音楽への案内 第二課題レポート 「和歌」 土屋良子

【2011年度 詩と音楽への案内】

和歌  歴史遺産コース 土屋良子

 第二課題 『中世の文学』


(一) 和歌は歌うもの
 和歌といえば私にとっては小学校での百人一首の暗記に始まり、中学校でのあの独特の抑揚をつけたよみ練習に終わった。ほとんどの和歌はよく意味も解らず、面白いものでもなかったが、

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮

この一首には心惹かれるものがあった。ところがこれは例のよみで詠むよりも、普段の話し言葉のように平坦に詠む、もしくは黙読や、心の中で詠む方が味わい深く思える。もともと歌は楽器を伴って長く詠ずる、まさに「うたう」という意味で、和歌はその一種であり、後に「思っていること、胸の裡にあることを言葉に発表したものを指す」詩の意味にもあてはめるようになったものであるという。
 いはば歌は音楽、詩は文学と意味がはっきり分かれていたのであった。
それにしても和歌はたった31文字である。私達が普段聞いている歌謡曲でも、ロックでも、歌詞があるものはもっと長い。昔の歌がどんなものであったのか、よくわからないのである。うたとはなんだろうか。

(二) 言葉と音の関係
 私達は普段様々なことを喋り、歌っている。
 まずは言葉を音と共に表すとどうなるのかを経験に即して考えてみたい。
本を読んでいて気づくと寝ていた…この経験は誰にでもあるだろう。ページの文字がただの形に、意味を持つものに見えなくなり、いくら読んでも単語と単語が繋がり、頭に定着することがなく、流れのままにどこかへ消えて行ってしまう。また悲しいことに、一度読んだくらいでは一週間もすれば全ては忘却の彼方である。二度読む、散歩しながら思い返す、ノートとペンを傍らにおいて進める、様々な方法はあるが、記憶するためにはそのために何らかの新たな作業を必要とするのである。ところが、鼻歌を歌っていると、ふと口をついて歌詞が出てくる。そのとき歌詞の意味は全く頭の中になく、ただメロディーにのって出てくるのだ。音読しながら本を読むとたいていその内容をよく覚えていない。音にのった言葉は意味を伴わずただ言葉として記憶に定着している。
 また子供のころ、母に経文を覚えさせられていたが、覚えようとすればするほど自分でリズムを取り覚えていることに気が付いた。言葉は音楽にのせると覚えやすいのだ。自らが発する場合言葉と音はこのような役割を持つ。
 言葉と音の重大な側面は「聞く」ことである。私達は作業をしながら音楽を聞き、ラジオを聞いたりしている。そして結構それを覚えていて、笑ったり泣いたりしている。自分のカラオケで泣く人はあまりいない。みな、人の歌を聞いて泣くのである。歌が上手い下手ではなく、聞く事でその言葉を理解することができるからなのである。さらに言えば、朗読に代表されるように聞く際には音楽がなくとも言葉は聞く者にスッと入ってくる。逆に音楽があれば後に自ら思いだし、歌うことが容易になり、何度も噛みしめて味わうことができるのである。ともあれ、聞くことは内容把握、理解の役割を担う。

(三) 人が言葉を発する…かたり
 「うたう」は人が言葉を発する行為の表現方法の一つだが、坂部恵氏はそれらを
 1 「はなす」
 2 「かたる」
 3 「うたう」「いのる」「となえる」
 4 「つげる」「のる」
の四段階に分けている。「はなす」とは日常私達が使う言葉で、「かたり」とは語部という言葉があるように、連綿と伝えられ、ある型が作られているようなものに思われる。私達が昔話を伝えようと思う場合、まずはその話を覚えようとするだろう。すると覚える為には音やリズムが必要になる。たいていの昔話には独特の抑揚やリズムがついていることが多い。また長唄義太夫地歌など伝統音楽がほとんど物語を語っていること、遡って謡曲、平曲、(広義の)声明に至ること、その声明とは経典や高僧の事跡を詠んでいることはそれらが、まず語りの内容を覚えなくてはならないということ、意味から離れ、言葉を追求する過程でそこから派生した声の調子や間などに重点をおくことで語ることそのものが芸術になるように思えるのである。現代の歌詞はほとんど一人の作者によって作られている。それはあくまで思っていること、胸の内を表す詩で、かたりに連なる歌ではなさそうだ。

(四) 人が言葉を発する…うたう
 先ほどの分類によれば「うたう」と「のる」はどちらも神との関係抜きでは説明しえない行為のようである。「のる」は神がこちらへ向ける、上から下への方向性を持つ言葉であり、知る者から知らぬ者へという関係性を持っている。「うたう」はこちらから神へ、下から上への方向性を持つ。「かたり」との大きな違いは、それが人と人の間か神と人の間かによるもので、神がかり状態や連歌、問答歌のようにお互いが近づくこともあるが、あくまで別物であった。うたいものとかたりものという区別があるが、ここで述べる「かたり」と「うたう」の区別からいえば、それらはどちらも「かたり」の範疇の芸であるように思う。
 「かたり」の対象は物語であって、物語は語り継がれてきた歴史物語であった。うたとかたりの大きな違いはここである。自然を讃えても、気持ちを詠んでも、神を讃えても全て歌である。仏を讃える(狭義の)声明はその意味で「うたう」ものであるが、「かたり」のものより非常に音をのばす。雅楽も一音一音が長い。こんなに長くては曲を聞いて意味をつかむのは困難である。始めから知っているか、そもそも歌い手である私達が意味を知らなくてもよい言葉なのではないだろうか。つまり、声をだし、歌うべき言葉をうたっておればよいのである。このことは、声を出すということについても考えさせられる。
 どこの運動部でもたいていランニング中は声出ししながら、走っている。しかもちょっとした歌であることも多い。田植え唄、馬追い歌などの労働歌と同じで、体を動かす時声を出しているとスムーズに動く事から来ているのだろう。歌詞は動作に関連し、歌いやすいものである。では歌っている時の気分はどうか。例えば合唱では、歌いながら音に呑まれ、自分を人体の形に保っている境界線が溶けているような、周りと一体化したような忘我の境地になれるのである。そこまではなくとも、歌った後はスッと力が抜けるような心地よい疲れがある。これはよく聞く感覚である。大抵の人がこの感覚を味わったことがあるのである。だからこそ「うたう」ことは神への作法として用いられていたのだろう。重要なのは声を出す、うたうことであり、内容把握のための言葉ではなかったのである。

(五) 言葉の効能と和歌の魅力
 和歌の源であるという「うたう」ことについてみてきたが、そのうえで

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮

をよみ返すと、やはり眼で詠むために作られているものであると実感できる。文学の一番の特徴は読み、想像させることにあり、和歌はその想像を促す作り方をしている。「既に音楽と袖を分って文字にのり換えた歌、聴覚から視覚へと転居した歌は、民族の声を大まかに伝えるのではなく、民族の中のある個人の心をつたえるようになる。」という一文にあるように、和歌はやはり文学で、作者やその時代背景を重ね合わせ楽しむことができるものになるのである。当然和歌も遊びの中で歌われたであろうが、文字として残る文学である和歌は貴紳の間で繰り返し詠まれ、受け止められてきた。そういう積み重ねの方が和歌の魅力であると言えるのである。
(3021文字)


参考文献
風巻景次郎 『中世の文学伝統』岩波書店1985年
坂部恵 『かたり―物語の文法』ちくま学芸文庫 2008年
文化ライブラリー http://www2.ntj.jac.go.jp/


 

津軽

【2011年度 芸術環境演習・津軽 スクーリング・レポート】

津軽   歴史遺産コース・土屋良子




 美術史に出てくるような芸術は貴紳のみが鑑賞し、所有し、製作者も材料の問題からいって、それらとの繋がりがある人々であったのではないかと思うが、とにかく物として上等なものを差していた。文学にせよ、音楽にせよ芸術と認知される対象は少なく、あまり裾野の広いものであったとは言えない。ところが、今回のお山参詣という祭礼、津軽三味線、舞踏さらに津軽アイデンティティーを高めるための雑誌作りや縄文推進運動まで含めるなら、やはり芸術とは新しい言葉で、物や特定の美意識により作られた、何かを指して語ることのできるものではなく、人間の生そのものであると言える。であるからこそ美と醜両方を持つ人間が作ったもの、その姿を映したもの、そこから発せられるものが芸術として人々に受け入れられるのではないだろうか。

 日本の60%が雪国であるという。その中でなぜ津軽だけが、こんなにも独特の磁場を持つことになったのだろうか。私は人間椅子というバンドが好きだが、彼らは江戸川乱歩や昭和あたりの文学から詞を取って、ハードロックに乗せている。見た目も白装束の白塗り、文士風と普通ではないが、それも津軽出身と聞くと妙に納得させられてしまう。中でも須藤禰宜岩木山神社)の「津軽は日本の中心」発言はその他の地域では聞けないのではないか。私の住む東京都立川市多摩地域に属するが、米軍のいた街で、同じく米軍基地のある福生と張り合っている。そして自分達の方が勝っていると思っているが、それは「東京に近い」という謎な理由からである。この例がよい見本で、どこの地域にも多かれ少なかれ中央志向があり、日本全体、またどこか中央からみた我が街というような視点があるが、津軽の人は津軽を支点として周りを見渡すような印象がある。民謡を他地域から受容し、変形させ、未だ連綿と続けているというのはその表れであるように思う。他の雪国との違いはその視点を持たざるを得なかった理由によるものと思われる。それは飢饉の記憶だったのではないか。

 人の記憶はその最中よりも何度も思い返すことで、深化し、純粋になっていくが、その結晶化が作品となるなら、杉山陸子先生のお話にあった故郷脱出、回帰願望の葛藤という津軽の芸術は「なんだもんだば」「もつけ」「じょっぱり」といった強い気性と相まり、成立しやすいと言える。人は故郷を思い起こす時、家族友人の顔、そして山や川を浮かべる。望郷の念のシンボルとなるのが岩木山なのであった。対象が絞られるほど、エネルギーは集中する。また、そこで行われる祭礼に津軽一円の人々が集結するというのも大きい。そこでは登拝し、唱文をうたい、五感で岩木山と相対する。各人の岩木山はとてつもなく大きな引力を持つのである。

 人間の生そのものが芸術であるなら、人々が生きるその土地抜きでは何も語れない。私達が余所者でありながら、その土地を学ぶ意味はそこにあると言える。

 

  

花巻 私という現象は

【2011年度環境文化論・花巻】

花巻 私という現象は  染織コース 篠田秀子


はじめに

 私という現象は、どこからきてどこまでいくのだろう、そのような想いに答えを見つけようとするとき、50年余りのこれまでの人生の道中、度々何度も宮沢賢治の作品との出会いがあった。
 今回の花巻行をきっかけにさらに宮沢賢治の作品を改めて読み返し、また新しく読んだ。イギリス海岸北上川ほとりに降りてその水にさわり、青いクルミの実を拾い、7月の木々を揺らす風の音を聞き、賢治誕生の産湯の井戸の水をくみ、ぐるりと花巻を囲む山並みを確認した。小岩井農場から帰るバスの中からようやく姿を現した岩手山の姿をずっと追いかけた。岩手県イーハトーヴォの空気を呼吸して、賢治の世界に今までよりも少しは深く親しむことができるようになったであろうか。いったい私にとっての賢治はどこにそんなにも魅力を持っているのか、今回の花巻での学習と体験をもとに、度々もらっては私の中で保ち持ち続けている宮沢賢治からの大切な宝物を今一度確かめてみたいと思う。

(1)方言の響きの魅力、文章表現の色彩の豊かさとリズムの心地良さ
 「あめゆじゆとてちてけんじや」などの方言を活字で見て読み、そして声に出して読んでみるときのその言葉の響きのふしぎさになんともいえず魅力を感じていた。賢治の方言は実はオリジナルでもあるとのお話があったが、今回「高原から」の朗読を聞かせていただく機会を得たことで私の中にまた新しい景色が広がった。強風に吹かれる稜線から遠くの景色を眺め感動したその瞬間が、幾たびも幾たびも心に刻まれていることを思い返す。

「海だべかど おら おもたれば
 やっぱり光る山だたじゃぃ
 ホウ
 かみげ 風ふけば
 鹿踊りだじゃぃ」

「風とゆききし雲からエネルギーをとれ」(1) のフレーズがうかぶ。私は20~30代の15年ほどの間、休日のすべてを山に通う生活をしていたので自然との交流の表現が心に体にぐっと触れてくるのだ。それは夜の山道を星空のもと一人で登っているときや、月明かりで雪の稜線を歩いているとき、恐ろしいほどの青い空を見上げたり、本当に降ってきそうで怖いくらいの満天の星空を眺めているときに感じたことなどが賢治の文章で蘇り、清々しいような新しいような気持ちになるからだと思う。夕暮れ時に雪も空も霧もみんな薄紫色の世界に包まれた事や、朝夕の光の色の移ろい、ダイヤモンドダストブロッケン現象などなどの体験が、童話や心象スケッチのそこここにいろいろに表現を変えては現れる自然描写によって思い出され、気持ち良いのだと思う。38年間のしかも病弱な体の生涯にしては膨大な作品を残している賢治は、26歳のころには一日100枚の原稿用紙を書いていたという。ひと月3000枚。そこにはたくさんの動植物の名、鳥の名、樹木、宝石、岩石、化学現象の名前がでてくる。それらの名はどれも私にはなぜか親しみ深くあるようでいつも見ていたのに意識にとどまらなかったりしていたものが思い出されるような気持になる。確かに私は経験しているのだが忘れていることを思い出す。同じ情景、空気を知っているかもしれないと思う。意味が分からなくてもわかっても心持ちがほっかりするのだ。
 「ほうっ、ほほうというのはね、賢治先生の専売特許の感嘆詞でしたよ。どこでもかまわず、とつぜん声を出して飛び上がるんです。くるくるまわりながら、あしばたばたさせて、はねまわりながら叫ぶんです。」(2) とは教え子の回想。「いつも首にペンシルぶら下げていて、とつぜん天から電波でもはいったようにさっさっと、生徒取り残して前の方にかけていくのですよ。そうして「ほっほうっ」と叫ぶんですよ。叫んで身体をこまのように空中回転させて、すばやくポケットから手帳を取り出して何かものすごいスピードで書くのですよ。」「喜びがわいてくると、細胞がどうしようもなくなって体が軽くなってもうすぐとんでいっちまいそうになるのですね」
 四季折々の山を駆け巡っているきには、私にも体中の細胞が喜んで、心が爆発しそうな感動を何度も何度も味わうのだけれどそれをうまく表現できないもどかしさがいつもある。それで色彩豊かな新しい言葉で自然現象や花や木々の様子をスケッチしてくれる人に出会えてうれしくなるのだと思う。
 
(2)銀河系を意識すること
 賢治の童話は豊富な科学的知識と慈悲の思想をもとに書かれている、というところにも惹かれる。私と同世代の友人には祖父母から『銀河鉄道の夜』(3) (岩波の子供向け推薦図書ハードカバー)をプレゼントされたという者が何人もいた。高校の文化祭で影絵人形劇を上映しようと考えたのも同じ本を何人も持っていたからのように記憶する。この子供向け推薦図書にはセロのような声が聞こえてくる第3次稿が挿入してあった。(4) さらにおまけもついて目覚めた後の第4次稿の終わりの部分、ジョバンニは町の方に走ってからまたもとの丘の上に上って星めぐりのうたにうっとり聞き入るところまでが入って終わっている。
 「銀河鉄道の夜」は最後の最後、死の間際まで原稿を枕元において推敲を重ねていたという。第4次稿では削除された部分が少年向きには復活して載せられていたのだった。それでセロのような声で「…そしてみんながカンパネルラだ」というセリフの部分を心を込めて上映したような気がする。「あらゆる人のいちばんの幸福をさがし」…「もう信仰も化学と同じようになる」と。「ぽかっと光ってしいんとなくなって…だんだん早くなって」という春と修羅に登場する私という現象、有機、因果交流電燈のようなセリフを当時はどのくらい理解して上映していたものだろうか。
 高校生の時には高校生なりにやみくもに「あらゆるひとのほんとうのいちばんの幸福」を求めていた。それから30年以上たった今も思い返せばずっと日々求め続けている。そのころからくらべればたくさんの山にのぼりずっとおだやかに静かに求められるように少しずつではあるが進化してきていると思う。この何度も推敲を重ねた童話の核心は賢治からうけとった最初の宝物であったのかと思う。
 大震災当日3月11日の夜空は満天の星空、街から明かりが消え当地の夜空の美しさはひときわだったであろう。大勢の人が一度に訪れたら銀河ステーションは混雑しているだろうか、みんな水晶の河原の美しさに目を奪われながら無邪気に遊ぶことができただろうかと祈っていた。「みんな限りない命です」(5) とは私も思っている。そして「みんなひとつの命」で「みんなむかしからの兄弟」(6) であるとも。というよりはひとつのところからきていつでもそこに戻れるということだろうか。「じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分でそれをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」(7) と。たぶん賢治がみなにぜひ伝えたいと思って表現していることは仏教の世界観に科学的知識が加わったもので、それは私が後に学んだヴェーダの知識にも同じような世界観を見つけることができる。宇宙と個別生命は呼応しているということ。様々な体験の積み重なりからあるとき私のからだにはストンと腑に落ちた、というようなことでしか言えないが、たぶんそれはそうだろうと感じている。いつか化学が、科学が、遺伝子情報や量子力学の分野などの研究がさらに進むことで証明することができるようになるだろうと思っている。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という農民芸術概論、そして「春と修羅」に出会い、「生徒諸君に寄せる」等に感激し、その中のいくつかの言葉をスケッチブックに書き写しては時々思い出しては眺め、それに類する古今東西の先人の教えを様々書き足しては折に触れ読み返して生きてきた。今回改めて銀河鉄道の夜を読んでみたらそれら先人たちの伝えたいことのエッセンスがちりばめられているようにも思えた。第4次稿ではセロの声が全面削除されたのもなんとなく頷ける。説明的すぎると思ったのだろうか。私には小、中学生でセロの声に出会えてよかったと思える。それがいずれヴェーダとの出会いにもつながり、今幸福な私、あらゆるひとのほんとうの幸福を願う私が幸福に存在することができている。あらゆることに感謝したい気持ちでいっぱいになる。
 「罪やかなしみでさえ、そこでは清くきれいにかがやいている」イーハトーヴォのように辛いできごとや別れや喪失にも感謝の念が湧く。

終わりに
 宮澤賢治の世界は、銀河の彼方に思いを馳せるほどに広く、またいのちのあり方について他の命を食べて生きる切なさに心痛める、と深いので何度も読みかえしてもいろいろに考えることが湧き出してきて楽しい。広がりすぎて、深すぎてどこまでも行けそうな感覚がまた心地よい。今回の花巻行では賢治と宮澤マキ、父親への反抗などについて考えるきっかけを得たが、いろいろ再度読んだり調べてみるにつけても、皆から見れば賢治はそうとうの変り者でやっぱり今まで想像していた以上にきっと、誰から(親から)見ても天才だったのだろうなあという印象を強くした。

 「ああ誰か来てわたくしに言え 
 億の巨匠が並んで生まれ
 しかも互いに相犯さない 
 明るい世界は必ず来ると」 (8)

 賢治はきっとはるか遠くまで、そしてたぶん「向こうの世界」もときどきのぞいて見ていた人だと思う。「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してそれに応じていくことである」(9) そのほんとうの核心になかなかたどりつけないが、これからも賢治の作品を読み続けることで今生ではどこまでいけるものか、楽しみに生きていきたいと思う。気層のひかりの底をゆききするみずからの修羅を意識しつつ。

 震災後、「かなしみをちからに」という齋藤孝編集の宮澤賢治のことば集が出版された。抜き出した言葉の断片であってもまとまって読むと凄くエネルギーを感じ力づけられた。



(1) 「農民芸術概論」
(2) 畑山 博 『教師 宮沢賢治のしごと』 小学館 1988初版 1989第6刷107頁
(3) 宮沢賢治 『銀河越道の夜』岩波書店 1963年第1刷 1986年第25刷
(4) 宮沢賢治全集7 ちくま文庫 1985年 553頁v.   
(5) 「めくらぶどうと虹」
(6) 「青森挽夏」
(7) 「種山ケ原」
(8) 「業の花びら」異稿
(9) 「農民芸術概論」

≪宮沢賢治の雲≫

【2011年度「環境文化論1~4(花巻)」スクーリング レポート】

宮沢賢治の雲≫ 芸術学コース 須田雅子



1.はじめに
羅須地人協会跡の柱にあった、「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」に、とても爽やかな印象を持った。『農民芸術概論綱要』からの引用だ。『心象スケッチ 春と修羅』にも「雲」が頻繁に出てくるが、それらは爽やかさとは程遠い。賢治作品で「雲」は何を意味するのだろうか。

2.『心象スケッチ 春と修羅』(初版本)の雲
同書には、序を含め70の詩があり、そのうち30の詩に「雲」が出てくる。多いもので、長篇詩『小岩井農場』に16回、『東岩手火山』に10回、『風の偏倚』に9回、そのほかの詩にもかなり頻繁に出てくる。
気になるのは雲の表現のされ方である。「白い」「黒い」「鼠いろ」などは天候により普通に用いられる表現だろう。鉱物好きだった賢治は、雲を「玉髄」「蛋白石」「白雲母」「玻璃末」などに喩えたりもした。しかし、「ぎらぎら」「ぐらぐら」「陰惨」「暗い金属」「氷片」となってくると、話は別である。
(1)穏やかな雲
 『東岩手火山』の雲は、「柔らかさう」「柔らかな」「蛋白石の」と表現され、賢治の穏やかな幸福感が感じられる。
(2)暗い雲
 妹、トシ子の死が詠われる詩では、雲は暗く重い。『永訣の朝』の雲は「陰惨」だ。『噴火湾ノクターン)』では、「暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる そのまつくらな雲のなかに とし子がかくされてゐるかもしれない」とする。陰気な雲は、罪悪感の投影か。
(3)性的な雲
 岡澤先生は、歩行詩『小岩井農場』が、賢治が保坂嘉内との別れから立ち直るために書かれたものと考え、『ダルゲ』を引用し、「保坂の亡霊が「西ぞらの縮れ雲」に隠喩して現れようとも、それを無視して行こうと表明した」(1)と述べている。賢治が『雲とはんのき』でも「雲は羊毛とちぢれ」、「北ぞらのちぢれ羊から おれの崇敬は照り返され」と、『ダルゲ』と同じ詩句を用いていることを考えると、縮れ雲や羊は保坂に関わるもののようだ。
 『小岩井農場』パート9で、あれだけ必死に、恋愛や性慾を否定しているのは、自分では認めたくなくても、(おそらくは保坂への)恋愛感情と性慾が自分の中に渦をまいていたからだろう。
 『雲の信号』では、「雲の信号は もう青白い春の 禁欲のそら高く掲げられてゐた」。『風の偏倚』では、雲は「錯綜」し、「意識のやうに移って行くちぎれた淡白彩の雲」であり、「きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲」となる。
 「青い抱擁衝動や 明るい雨の中のみたされない唇が きれいにそらに溶けてゆく」で始まる『第四梯形』で、雲は「縮れて」「ぎらぎら光り」、「やまなしの匂い」を湛える。これらにはどうも性的なものが漂っているように感じられる。
 押野武志は、性欲や性愛を煩悩とみなし、克服しようとする賢治が、「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ、雲にだって女性はゐるよ」と藤原嘉藤治に話したというエピソードを紹介している(2)。
 
3.おわりに
 菅原千恵子は、晩年の賢治について、「黒雲という表現は、これまで彼の詩の随所にみられるものであるが、輝く雲が、法華経に陶冶された世界だとすれば、黒雲は信仰に対立するものであり信仰を邪魔するものである」(3)と述べる。賢治が嘉内と共に青春の日々を過ごしたとき、すでに「今日こそ飛んで あの雲を踏め」(4)と記していることから、賢治は生涯を通じて、内面を雲に投影していたといえる。
 晩年に賢治は禁欲のために病気になったということを自ら認めていたらしい。あまりにも純粋で、ストイックで不器用な生涯だ。晩年の詩「移化する雲」で、「ふたりだまって座ったり うすい緑茶をのんだりする どうしてさういうやさしいことを 卑しむこともなかったのだ」と書いている(5)。ここではタイトルに雲が用いられる。賢治が自分を許すことができ、そういう普通のことができていたら、普遍の価値を持つ多くの作品も生まれなかっただろう。私は賢治を反面教師とし、ストイックにならず、のんびりと賢治の世界を味わってみたいと思う。

(総文字数:1645)


<参考文献>
「精選 名著復刻全集 近代文学館」宮澤賢治著『心象スケッチ 春と修羅』関根書店版 日本近代文学館 1974年発行 第6刷
岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』 未知谷 2005年初版
押野武志『童貞としての宮沢賢治ちくま新書2003年第一刷
菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって』角川文庫 2010年 3版 

<注>
(1) 岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』 未知谷 2005年初版 154ページ
(2) 押野武志『童貞としての宮沢賢治ちくま新書2003年第一刷 32ページ
(3) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって』角川文庫 2010年 3版 239ページ
(4) 同上 41 ページ
(5) 同上 249 ページ