津軽

【2011年度 芸術環境演習・津軽 スクーリング・レポート】

津軽   歴史遺産コース・土屋良子




 美術史に出てくるような芸術は貴紳のみが鑑賞し、所有し、製作者も材料の問題からいって、それらとの繋がりがある人々であったのではないかと思うが、とにかく物として上等なものを差していた。文学にせよ、音楽にせよ芸術と認知される対象は少なく、あまり裾野の広いものであったとは言えない。ところが、今回のお山参詣という祭礼、津軽三味線、舞踏さらに津軽アイデンティティーを高めるための雑誌作りや縄文推進運動まで含めるなら、やはり芸術とは新しい言葉で、物や特定の美意識により作られた、何かを指して語ることのできるものではなく、人間の生そのものであると言える。であるからこそ美と醜両方を持つ人間が作ったもの、その姿を映したもの、そこから発せられるものが芸術として人々に受け入れられるのではないだろうか。

 日本の60%が雪国であるという。その中でなぜ津軽だけが、こんなにも独特の磁場を持つことになったのだろうか。私は人間椅子というバンドが好きだが、彼らは江戸川乱歩や昭和あたりの文学から詞を取って、ハードロックに乗せている。見た目も白装束の白塗り、文士風と普通ではないが、それも津軽出身と聞くと妙に納得させられてしまう。中でも須藤禰宜岩木山神社)の「津軽は日本の中心」発言はその他の地域では聞けないのではないか。私の住む東京都立川市多摩地域に属するが、米軍のいた街で、同じく米軍基地のある福生と張り合っている。そして自分達の方が勝っていると思っているが、それは「東京に近い」という謎な理由からである。この例がよい見本で、どこの地域にも多かれ少なかれ中央志向があり、日本全体、またどこか中央からみた我が街というような視点があるが、津軽の人は津軽を支点として周りを見渡すような印象がある。民謡を他地域から受容し、変形させ、未だ連綿と続けているというのはその表れであるように思う。他の雪国との違いはその視点を持たざるを得なかった理由によるものと思われる。それは飢饉の記憶だったのではないか。

 人の記憶はその最中よりも何度も思い返すことで、深化し、純粋になっていくが、その結晶化が作品となるなら、杉山陸子先生のお話にあった故郷脱出、回帰願望の葛藤という津軽の芸術は「なんだもんだば」「もつけ」「じょっぱり」といった強い気性と相まり、成立しやすいと言える。人は故郷を思い起こす時、家族友人の顔、そして山や川を浮かべる。望郷の念のシンボルとなるのが岩木山なのであった。対象が絞られるほど、エネルギーは集中する。また、そこで行われる祭礼に津軽一円の人々が集結するというのも大きい。そこでは登拝し、唱文をうたい、五感で岩木山と相対する。各人の岩木山はとてつもなく大きな引力を持つのである。

 人間の生そのものが芸術であるなら、人々が生きるその土地抜きでは何も語れない。私達が余所者でありながら、その土地を学ぶ意味はそこにあると言える。