ヘルダーリンの詩に関して―「人生の半ば」を中心に― 芸術学コース 加藤綾

【2014年度「詩と音楽への案内」レポート】

ヘルダーリンの詩に関して―「人生の半ば」を中心に― 芸術学コース 加藤綾


1.はじめに
 詩はその性質上、作者固有の私的な心情が多分に投影され、一篇のうちに作者の生そのものが凝縮している。そのため、文学のなかでも解釈が困難な分野なのかもしれない。とくに外国語の詩の場合、もちろん巧みな邦訳が存在するものの、おそらく詩自体が翻訳を拒んでいる。しかし一方で、すぐれた作品ほど、さまざまな解釈を容認するのだろう。
 わたしが『ヘルダーリン詩集』を通読して、最も感慨深く思った詩は、「人生の半ば」だった。とくに理由はない。ただ漠然とである。だが、この詩の美しさはどこからくるのだろう、ヘルダーリンはどのような意味を込め、なにを伝えたかったのだろうか。誤読を避けるためにも、まず「人生の半ば」が成立した背景を確かめ、ついで原文と照らし合わせつつ、この詩を読み進めてみよう。

2.ヘルダーリンの詩作における「人生の半ば」の位置付け
 フリードリヒ・ヘルダーリンは1770年、南ドイツの長閑な小村、ラウフェンに生まれた。若い頃からギリシャの古典文学に親しみ、またシュトゥルム・ウント・ドラング、続くドイツロマン主義の活発な流れのなかで、シェリングヘーゲル、とりわけシラーから大いに影響を受け、豊かな詩の才覚を現していった。
そしてヘルダーリンの生涯で重要な位置を占めるのが、ズゼッテとの関係である。1795年、彼は家庭教師としてゴンタルト家へ赴き夫人のズゼッテと出会う。ヘルダーリンのズゼッテに寄せる愛慕はやがてディオティーマの名のもとに昇華し、小説『ヒュペーリオン』をはじめ、いくつかの詩において至高の理想像として描写された。
 「人生の半ば」は、そのズゼッテとの死別を経て書かれた作品で、「夜の歌」と題された九篇からなる詩群の一つである。ズゼッテが逝去した同年の1802年ヘルダーリン32歳の作だが、この前後から彼の精神の衰弱が顕著になってくる。「人生の半ば」の前年に書かれた「ライン」や「ゲルマニア」といった堂々たる長篇とは対照的に、「人生の半ば」では、なにか切実な悲哀が感じられるのも当然のことかもしれない。のち、ヘルダーリンは精神的困窮が募り、彼の良き理解者であったツィンマーの庇護下で40年近い歳月を過ごし、薄明のなか1843年にその生涯を終えた。

3.「人生の半ば」読解
 では、「人生の半ば」を読んでいこう。まず、題名の「人生の半ば」が意味するものは何なのか。原題はHälfte des Lebensで、手塚富雄氏の訳では「生のなかば」となっている。いずれにせよ、この世に生命を得て死に至るまでの中間点、過去と未来を持った現在のあるひとつの状態と解することができるだろう。もちろん、中間点と定めるところは人それぞれだと思われるが、ヘルダーリンの当時の心境を推測して考えるなら、むしろ自身のきた道、ゆく末を憂慮し、定まらぬ中間点を探るかのようでもある。しかし、決して人生の終盤や最期ではなく、「半ば」とするところにヘルダーリンの特質があり、きわめて粋な題名ではないだろうか。
 詩の本文へ移ると、最初の三行は、

  黄色い梨の実を実らせ 
  また野茨をいっぱいに咲かせ 
  土地は湖の方に傾く。

だが、黄色い梨や野茨が咲き満ちるという言葉は、自然が成熟する季節、十分に深まった秋のような情景を思わせる。気になるのは「土地は湖の方に傾く」という表現である。手塚氏の訳では「陸は湖に陥ちる」、または「野は湖に入る」となり、原文はDas Land in den Seeで、動詞のhängetは最初の一行の末に倒置されている。では、土地が湖に傾くとはどのような意味なのだろう。土地が豊饒な季節を抱えて、湖水を湛えたより深い窪地へ傾倒してゆく時空間の移行とも解釈できるのかもしれない。それは読み手に静かな思索を促し、そしてまた次に続く白鳥の情景への導入としても文学的に秀逸な一文となっている。
 つぎの四行では、束の間の夢見心地な間奏曲さながら、典雅な白鳥の動作が描写される。
Schwäneと複数形なので、たくさんの白鳥か、あるいはつがいの白鳥だろうか。この四行のなかでも、最後のheilignüchterne Wasserという表現が美しい。「聖なる静かな」という意味がheilignüchterneの一語に集約され、詩全体に強度を与えている。この白鳥のありさまは、詩人にとっての理想的な境地を表しているといえるだろう。
 第二節に入ると一転、現実に引き戻されるように寂寞とした冬の情景が展開される。第一節の生命感に富んだ表現との明白な対比が感じられ、また実り豊かな季節から冬への時の経過がうかがえる。
 この第二節で注目されるのは、親密な自然が消失していることである。はじめの四行の原文を引いてみよう。

  Weh mir, wo nehm ich, wenn
  Es Winter ist, die Blumen, und wo
  Den Sonnenschein
  Und Schatten der Erde?

冬が訪れたなら、もはや花々を摘む場所も輝く陽光も身近に存在しない。そしてせめてもの願いとして地に落ちる影、つまり光のかすかな気配を求める心情は、非常に痛々しい。おそらく、四行目の最初のUndが三行目とのあいだに間をもたらし、悲痛感を一層喚起させる要因になっているのかもしれない。
 最後の三行では、感情表現は抑えられ、事物の様子が淡々と描写されている。生命が登場することはなく、あるのは壁や風見といった無機的な人工物で、冷たい風が風見を鳴らす。詩人が悲しみを超えて、ただそこにある事実を遠望しているかのようである。どこか、一挺のバイオリンが奏でる、繊細なビブラートの震えを感じる。

4.詩と音声について
 「人生の半ば」をより良く理解するために、ひとつの手がかりとして、詩と朗読の関係を考えてみよう。
 詩を読むということは、言葉の連なりを追いながら解釈を深めていく行為だろう。しかし、詩を朗読することと黙読することには、どのような差異があるのか。おそらく朗読することにより言葉の意味はもとより、音楽性や響き(Ton)がより鮮明になり、時間芸術としての詩の性質が際立ってくるのだろう。
ガダマーは『詩と対話』のなかでゲオルゲヘルダーリンを比較し、ゲオルゲの詩はグレゴリオ聖歌のような典礼的な響きがあるのに対し、ヘルダーリンの詩の響きは、あたかも瞑想するように自分自身の前で「語り放す」(Hinsagen)という特徴があると述べている (1)。たしかに、ヘルダーリンの詩は大勢の前で声高に朗唱するというよりは、一対一の内密な対話を望んでいる。とりわけ「人生の半ば」は、個人的な感想だが、音楽用語でいうsotto voce(ささやくような声で)の曲想を思わせる。実際に、Bruno Ganz氏の朗読によるヘルダーリンの詩を聴くと、落ち着いた声の抑揚やドイツ語特有の音の響きとリズム、間の取り方などが印象的で、ヘルダーリンの心に少し近づくことができる気がした。

5.おわりに
 今回、「人生の半ば」というヘルダーリンが自身の病的な徴候に苦しんでいた時期の作品を取り上げたが、今なお多くの人々の共感を誘う作品だろう。sympathyの原義は、「苦しみを共有する」ことである。けれども、ヘルダーリンは生来の明朗さと貴族的な悠長さを持ち併せていた。生涯に渡り、ピアノやフルートの演奏を楽しんでいたという。
 ちなみに、作曲家のシューマンは最後のピアノ曲として《暁の歌》作品133を作曲したが、当初はヘルダーリンとディオティーマを想定していたらしい (2)。その後シューマンは自殺を図り、やがて衰弱死するけれど、同じくディオティーマに魅せられた事実が興味深い。
 なお「人生の半ば」を再読して、またひとつ気付いたのは、生命の循環が描写されていることである。実りの季節が過ぎゆき、長い冬のただなかにいる。しかし春は必ず訪れ、生命がまた一斉に芽生える。中間部のエレガンスな白鳥の情景に、一方で儚さが感じられるのも、いつしかまさに「白鳥の歌」を残して死にゆく存在だからだろう。生命の生と死が連鎖するその半ばにいるということは、自己の存在意識を高め、未来を展望する権利を得ることにもなるのかもしれない。 

                                   (3,141字)


(1)ガダマー『詩と対話』、57-58頁参照。
(2)シューマン《暁の歌》、ヘンレ版楽譜の序文参照。


参考文献
ヘルダーリン詩集』川村二郎訳、岩波書店、2002年
Friedrich Hölderlin,Gedichte,Stuttgart,Philipp Reclam jun,2003
『世界名詩集6 ゲーテ ヘルダーリン平凡社、1968年
手塚富雄著作集』第1、2巻、中央公論社、1981年
H.-G.ガダマー『詩と対話』巻田悦郎訳、法政大学出版局、2001年
ヘルダーリン『ヒュペーリオン』青木誠之訳、筑摩書房、2010年


参考資料:課題テキスト(川村二郎訳、岩波文庫、2002年)より。
引用責任:当ブログサイト運営者、中路正恒

 人生の半ば

黄色い梨の実を実らせ
また野茨をいっぱいに咲かせ
土地は湖の方に傾く。
やさしい白鳥よ
接吻に恍(ほう)け
お前らは頭をくぐらせる
貴くも冷やかな水の中に。

悲しいかな 時は冬
どこに花を探そう
陽の光を
地に落ちる影を?
壁は無言のまま
寒々と立ち 風の中に
風見はからからと鳴る。

生と死の際にある「津軽」  陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)

【芸術環境演習・津軽】スクーリングレポート

生と死の際にある「津軽」 --- 陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)


 神明宮の記憶が、頭のどこかにずっと、ある。触れることも、それについて考えることも障りがあるような、直視が憚られるような恐ろしさ。時間と距離を置いて眼前の現実でなくなってようやく意識に乗せることが可能にはなったが、畏れは依然として消えない。神でも仏でも、いわゆる心霊でもない、自然といっても地霊といってもどこか言い足りない<なにか>。その本体はわからないが、今回の津軽行を考えるうえで避けては通れない体験だったという思いが強い。以下せめて周辺の印象を抽出することで、私なりの<津軽>を考える端緒としたい。

 命と引き換えの厳しい祈願、という気がした。馬の像の台座に男女あわせて7~8人の奉納者名が刻されている。住所と、姓名の下に年齢。まるで墓碑銘のようだと思った。あるいは誓紙、契約書か。五十代後半の女性を筆頭に、年齢順、男性はすべて同姓であるところから兄弟姉妹と思われる。自分が何者であるか、逃げ場のないほど残りなくさらけ出している。末尾には石材店の名前まで連帯保証人のように記されている。
 中路先生のお話では、日中戦争で軍馬として徴発された飼い馬のための像が先にあり、ここに記された一族に「何か」があったときにしかるべき人にお伺いをたてその指示をうけてこのように祀られたものだろうということだった。反対側の塔にもやはり台座に十数人の奉納者銘があり、「厄除記念」とある。「祈念」でも「祈願」でもなく「記念」。言霊の力を頼みに、眼を瞑ったまま一心に唱え続けてそれが過ぎ去るのを待つような感覚だろうか。ふと談山神社の十三重塔を思い出した。馬の傍には龍の浮き彫りがあるやや小ぶりな手水鉢。違和感のもとは、つくりも周囲の状況も、これが実用として使われるようには全く思えないことだ。至る所で<死>を突きつけられているような気がする。
 過去のある<モノ>を再び祀る。それは今の不安な状態と過去の何らかの事象との関係を結びなおし、ある流れの中に今の自分を位置づける行為といえる。宙ぶらりんの<果>に<因>を与え、「物語」として着地させることによってひとつの安定=救いを得る。そこに介在するのはおそらくカミサマやイタコと呼ばれる人たちの「語り」であろうと思う。
 <救い>というものが、生と死のぎりぎりの場でしか得られないという本来的・根源的なあり方があの場にあったような気がしてならないのである。

 思えば太宰治も、寺山修司も「かたる」人だ。作品やプロフィールの中に「虚」を織り込み、自らを演出する。現実から眼を背けるわけでなく、「語る自分」と「語られる自分」を常に意識しながら、虚構と現実のなかに<ほんとうのこと>を定着させようとしていたように思う。それは生きてゆくためにどうしても必要な、無意識の<救い>=いま自分がここにいることの確認だったのではないか。『津軽』に「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった」とあるが、『東京八景』の「芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である」と対応させて読むと、その真剣さの色合いが全く違って感じられるのである。

 生きてゆくうえで、どうしようもなくどうにもならないことを、どうにかしようとすること。芸術とは、そういうものではないだろうか。過酷な自然、天地の感覚さえ失うという雪・・・日常と非日常、生と死が極めて近くに隣り合ってある津軽の風土においては、「生きる」ことの中に芸術がある。というより「生きること」そのものが芸術となる、というべきだろうか。

 もうひとつの核となる身体性についても多少触れておきたい。自然・気候条件・文化によって作り上げられた日本人本来の肉体を、その根源的なDNAにまで立ち返り、表現しようとした「舞踏」。末期の老人が布団の中でも踊れる踊り。地面と一体化し、風景と化すというそれは、まさに風土そのものと言っていいだろう。映像では本来の凄みを十分に感じ取れたとは言いがたいが、その後の体験でふと、日本人本来の身体感覚というのはもしかしたらこういうものかな、と思うことがあった。一週間ほど前に粟田神社の剣鉾の練習の見学会があり、ちょっとだけ試しに、と「差し袋」と呼ばれる腰帯をつけてもらい、60キロほどある剣鉾を実際に差してもらったのである。その姿勢が、お山詣りのときに御幣を持った感覚と身体のなかで重なった。腰(臍下丹田?)を中心にして背筋に芯がとおり、自分の身体を通して天と地を垂直につないでいるような感覚。ベテランの人の話では、まっすぐに立ててバランスがとれていれば重さは感じないのだという。その感覚を、まず背骨に覚えさせる。歩くのはそれから(実際は歩きながら鉾を撓らせ、重い鈴を上部金属部分にあてて鳴らしながら進む)、と。私は重さによろめくばかりで倒さずに居るのがやっとだったが、それでも周りの人に支えてもらいながら、眼前に岩木山を見、お山詣りで幟を立てる人の感覚を想像できる一瞬があった。全く同じ体験でなくても、自分の根源にある日本人のカラダを確認することは可能なのかもしれない、と思った次第である。

 生と死を実感として感じることは実際難しいと思う。だが、お山詣りの夜、登山囃子競技会の終わり近くにその場に居た全員が息を止めてお岩木山を見上げたあの瞬間、私という存在がいなくなるような感覚を味わった。あれも一瞬・擬似的ながら<死>の感覚に近いものだったのではないかという気がする。津軽で瞬間瞬間に感じた感覚を、これから自分自身の身体と精神に問いかけながら、改めて「芸術」について考えてゆきたいと思う。

高山を歩きながら<飛騨の匠>のことを考える  阿波野 智恵子(筆名)

【2014年度環境文化論・飛彈】スクーリングレポート

高山を歩きながら<飛騨の匠>のことを考える --- 陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)


 林格男先生の講義のなかで、古川周辺に集中する古代寺院の痕跡の話とともに月ヶ瀬が止利仏師の故郷であるとされる伝説についてお話を伺った。「それが本当かどうかじゃなくて、なぜそういう伝説が生まれたかを考えるべきだ」というようなことをコメントされたかと思う。高山の町を思いつくままにあちこち立ち寄りながら歩いて、率直に感じたことを述べてみたい。

 ● 飛騨国分寺 三重塔から
 まず目に付くのは外方向に突き出している木の小口がすべて白く塗られていることである。基壇の組み物は側面が塗られている。そして高欄というのだろうか、初層の組手が支える横木の部分には、彫りの線の鋭い波の彫刻がある。奈良などで見る塔とはどこか違った印象を受けた。垂直方向の加重と木組みの工夫がせめぎ合う緊張感が奈良の塔のフォルムの美しさだとしたら、この塔はこのさりげない装飾の醸し出す地味な華やぎのようなものが塔全体の印象まで及んでいるように感じられる。文政4年再建という時代のせいだろうか。
 その昔飛騨は庸・調を免除する代わりに匠丁を差し出し、宮や寺院などの建築に従事したという。そのせいか<飛騨の匠>に対して宮大工の西岡常一さんのようなイメージを勝手に抱いていた。西岡さんの伝えられた「木を買わずに山を買え」──木の育つ場所や山の向き・陽あたり等によって一本一本異なる木の強度やクセを適材適所に生かして使えという教えは、山と木に囲まれて古くから木材の扱いに長けていたという飛騨にもいかにもありそうなことだと思っていた。
 が、この塔から受ける印象にふと疑問がわいた。今昔物語集などにある「飛騨の匠」が名人絵師・百済川成と競い合う技はなぜ扉のからくりなのか。建築の名人という設定なら、御堂の強靭さや精巧さ、例えば幸田露伴の「五重塔」のように大風にも倒れなかった、というようなエピソードのほうが効果的ではなかろうか。
 国分寺本堂内には大工の神様として祀られているという藤原宗安の像があった。木で彫った鶴が飛翔しそれに乗って飛び去った姿だといい、この話によって「木鶴」と号されて崇められていたそうだ。江戸時代各地の大工さんたちは聖徳太子を大工の祖として太子講を組織していたが、飛騨だけは匠講といってこの木鶴を信仰していたとのこと。彫った動物が夜に動いたという伝説を多数持つ左甚五郎が飛騨出身という話ともイメージが重なる。
 <飛騨の匠>は建築よりも木工・細工方面にその特色があるのではないか。
 
 ● 日下部家住宅
 明治12年の建築。実在の匠・川尻治助が棟梁である。吹き抜けの梁組の力強い美しさはいうまでもないが、ここでおもしろいものを見つけた。出格子の内側にはめられている障子の上の横木の上に1cm角×幅2cm程度の木のでっぱりがある。家の方に尋ねてみると、障子の上に隠し戸袋のようなものがあって、そこから木製シャッターとも言うべき細身の雨戸板(これも格子の色と同じに塗られている)が縦に降りてくるのだ。でっぱりは一部だけ下げるときのストッパーだったのである。ちなみに隣の部屋は横スライド式の雨戸である。「ミセ」としての部屋の機能を考えてのことと思われるが、合理的でありつつお洒落な感じがする。奥のお手洗いにはモダンなタイルが敷かれており、家の風格を損なわない調和のもとに洋風の意匠をも取り入れていたことがわかる。機能性と装飾を兼ね備えた、これらもひとつの<細工>のかたちといえるのではないだろうか。

 ● 吉島家住宅
 明治40年、棟梁は西田伊三郎。明治8年と38年に火災に遭い、二度目の普請ということである。日下部家の梁組の印象とはまた違って、太い梁と細い束の変化に富んだ組み合わせや、梁から下がった吊束と鴨居・中抜千本格子の瀟洒なデザインは大胆かつ繊細、よくぞこんな設計を思いついたものだと感心する。二階の部屋ごとの流れるような段差は当然一階の天上高に直結するが、それすらも各部屋の機能に即した必然であるかに見える。まさに粋を凝らした普請との印象を受けるが、火災直後に資材を擲っての公共事業的な性格も帯びていたと聞くと、高山のいわゆるだんな衆の側面が見えてくる気もする。
 いちばん印象的だったのは、檜材の大黒柱に両側から差し込んである大きな梁である。受付の方の話では、一本の太い木を真ん中から切り、元と末を入れ替えてねじれを矯正しつつ強度を高めているのだそうだ。木の特質を見極めた<適材適所>はここにあった!と手を打ちたい気分である。大黒柱への組みこみのズレ具合はデザインとしても絶妙である。

 考えてみれば、白川郷の合掌造りも、高山陣屋などに見られる榑葺も、個々の木の性質とその使用法を熟知していなければ出来ない技である。他方、高山祭の屋台を見れば、木工・彫刻・漆・金具飾りなどの細工装飾の素晴しさはいうまでもないが、釘を一本も使わずに車輪の構造からして一台ずつ異なる台を作り上げた創造力は、長い間の建築的技術の蓄積と無関係ではないと思われる。
 合理的機能的な実用性と、調和の取れた装飾性。京都とのつながりを濃厚に感じさせる金森家の支配ののちに天領となった高山の歴史的背景はもちろん重要であるが、今回のスクーリングで各先生方の講義をきいて感じるのは、厳しい自然環境のなかでたくましく生活してきた飛騨の人々の人間性がその根底にあるのではないかということである。
 林先生のお話や「土座物語」で語られるエピソードからは、傍目には厳しい生活を楽しむ智恵が随所に感じられる。稗や米の食べ方、草餅ほかいろいろのものを混ぜ込んだ餅のあれこれを、まずかったと言いながら当たり前以上のこととして笑って受け入れる。まずい食べ方も、一見差別的に見える村落内での慣習も、それを常態化することによって環境に順応することができる、弱者に対する優しさが含まれている合理的なシステムともいえる。だからこそ年に一度あるかないかの市餅の「ほっぺたがおちるほどまかった」喜びが輝くのだと思う。常に自然の恵みに感謝し、時たまの楽しみをより大きく享受するすべを自然に体得している。
 <飛騨の匠>は時代によって様々な貌を持ち、その多くは超人的な伝説に彩られている。長きに亘り飛騨の人々の誇りのひとつであり続けたのは、そのイメージに含まれる実生活に根ざした合理性と控えめな装飾性、加えて手間を惜しまず、仕事をきちんとやりとげる粘り強さがこうした飛騨の人々の生き方と重なるからではないだろうか。「下下の國」と見下されても、つつましい生活には自分たちの納得する合理性があり、折々に喜び・楽しむことをちゃんと知っているという誇りが、飛騨の文化の根底には何時も流れているのではないか。
 飛騨はやっぱり奥が深い。今回は<モノ>を見て<場所>に短時間立つのが精一杯のスケジュールだったが、季節ごとに訪れて<ひと>の話をもっともっと聞いてみたいと感じさせる地である。

「あめゆじゆとてちてけんじや」~「永訣の朝」の方言からみえてきたもの~

〔2013年度 環境文化論・花巻 スクーリング・レポート〕
      

「あめゆじゆとてちてけんじや」~「永訣の朝」の方言からみえてきたもの~ --- 陶芸コース 阿波野智恵子(筆名)



● はじめに
今回の花巻行で一番印象深かったのは、なんといっても講師のお三方に発音して頂いた「あめゆじゆとてちてけんじや」なのである。
 「永訣の朝」にあらわれる妹トシのこの言葉は、それが方言であることによってその空気をリアルに伝えているとともに、兄・賢治の真摯な祈りに呼応するように繰り返され、一篇全体に哀しくもうつくしく響き渡っている。ひらがなの表記から自然に頭の中に韻の美しさが立ち上っていくこの呪文めいたことばを、ふと、実際に耳で聴く方言で確かめたくなったのがきっかけであった。
「実はこんな方言はないんですよ。他の作品の方言も、ほとんど賢治のオリジナルなんです」佐藤勝館長に言われたひとことは衝撃的であった。しかしそれも、その時々に眼と心に映ずる心象風景を、よりイメージに忠実なかたちで総合的に表現しようとする、賢治の姿勢のひとつのあらわれであると言われればなるほどと思う。繰り返される推敲の問題とともに、詩篇春と修羅」における波状のレイアウトや、漢字・ひらがな・ローマ字等々の視覚的な表現方法が気になっていたからだ。
 それはそれとして、ではその表記と発音のズレはどう解消されるのか?
宮澤賢治研究をする人々の間には、定説めいたものがあるのかと思っていたら、これが見事にみんな違っていた。以下思い出して味わいながら、思うところを述べてみたい。

●三人三様の「あめゆじゆとてちてけんじや」
1) 佐藤勝氏 (宮沢賢治記念館館長)
<あめゆぎとってきてけじゃ>と聞こえた。
佐藤氏は、賢治の生家近くで生まれ育ち、祖父は賢治の学校の後輩、夫人は賢治の教え子の孫なのだそうだ。賢治にゆかりの人々にじかに接し、地域の空気を実感として知っているせいか、「あめゆき」でも、このあたりでは実際にはこう言う、というところにポイントが置かれた発語だったように思う。賢治が生まれ、生涯離れることのなかったこの花巻という土地、そういう土地に自分自身生まれ育ったことに対する誇りと責任感のようなものが、控えめな言葉の端々に感じられて嬉しい。
館内の展示と共に数々のエピソードを聞いた時間は贅沢そのものだった。賢治の生育環境(幼時から育まれた宗教観、地域における宮沢家の特殊な有り様とそれを根源とする父との葛藤など)がより高次の宗教を必要とし、それがのちの羅須地人協会、砕石工場の仕事へとつながってゆく。理想とする宗教性と、それを<利他>に実践するなかで抱え込まざるを得ない現実との相克――賢治の生涯にわたる多彩な活動を繋ぎ、自分なりに理解するためのひとつの道筋が見えた気がする。長時間付き合って頂いた事を感謝するばかりである。

2)牛崎敏哉氏(宮澤賢治記念館副館長)
<あめゆぎと(ッ)てきてけ(ン)じゃ>と聞こえた。
演劇的な<演出>を感じた。方言臭?が思いのほか薄いような気がしたので聞いてみると、大船渡の出身だそうだ。「言葉を聞けばどこの出身かわかる」という岩手においてはその差異が大きいのだろうかとも思ったが、「岩手(盛岡?)で長年暮らしてるとこんな感じになるんですよ」とのこと。やわらかく起伏するイントネーションはおそらくまぎれもない岩手のそれではあるが、何よりも言葉そのものを明瞭に聴き手に伝えるための抑制がはたらいていると思う。言葉の意味するところがすっとこちらのなかに入ってくる。賢治が実際にどう読まれることを想定して表記したか、ということよりも、そこにこめられた賢治の思いを自身消化していかに目の前の聴衆に伝えるかという点に立脚点が置かれているようだ。(もちろんその姿勢は広汎かつ深い研究に裏打ちされているに違いない)
東日本大震災の被災地で「虔十公園林」を朗読する話が強く印象に残った。農学校時代に戯曲を作り、生徒と共に上演した賢治の世界観が、新しいかたちと意味を付与されて、<いま>に生きている気がする。
なお、トシの言葉は病床にあって舌足らずになっていた状態であるとする説もあるそうだ。

3) 岡澤敏男氏 (元小岩井農場展示資料館館長)
<あめゆぎとてちてけんじゃ>と聞こえた。
今回会った人々のなかで最も熱く<賢治愛>を感じるひとである。このひとの「あめゆき」が、実はいちばん賢治のそれに近いのではないか、と思ってしまった。原文の「あめゆじゆ」を「あめゆぎ」と発音するところは三人とも同じであるが、後半の「けんじや」を佐藤氏が「けじゃ」、牛崎氏が「け(ン)じゃ」(あくまで個人的主観的な表記であるが)と発語したのに対し、岡澤氏ははっきりと「けんじゃ」と発音された。「ん、は入りますか?」と聞くと、「入ります」ときっぱり。
詩「小岩井農場」について実際にその行程を何度もたどり確かめ、先駆形や推敲のあとをひとつひとつ大切に丹念に検証されてきた人である。最終行の「わたくしはかつきりみちをまがる」(「春と修羅」掲載形)が「かつきりみちは東へまがる」(宮沢家所蔵自筆手入れ本)に直されていることに関して、<わたくし>という主語がなくなることによって行動の決意表明が弱まっているのでは?という質問に対し、「行動の主体が<わたくし>であることはすでに自明であり、それよりも進むべき<道>そのものが<かつきり>とまがっていることに強さがある」というようなことを述べられた。そして「賢治さんは無駄なことばは使わないんです。賢治さんはほんとうに文章がうまい」――崇敬、といっていいと思う。
まずありのままに受け取る。その上で検証し、自らの血肉として取り込む。その姿勢が「あめゆき」にも原文のもつ強さを感じさせたのだと思った。

●実は「オリジナルでない?」可能性
「賢治の言語感覚の土台をつくったのはこのお母さんでしょうね」
賢治の家族写真のコーナーを見ながら「あめゆき」に前後して佐藤館長がふと洩らした言葉である。その意見の拠るところをしっかりと聞いておかなかったのが悔やまれるが、
宮沢家は今も「花巻で一番の金持ち」であるそうだ。母イチの実家も同族の宮沢家であり、堂々たる蔵や家屋が何棟もそのまま残されていて圧倒される。富家のお嬢さんであるイチは近在の農民たちとは異なる言葉づかいをしていたものか。
母イチの、肉声の手がかりとなる記述をあつめてみた。

うんにや ずゐぶん立派だぢやい / けふはほんとに立派だぢやい(「無声慟哭」)(1)

「無声慟哭」のなかにトシとの会話としてあらわれる母の言葉は、地の方言(と思われる言葉)で話す。トシの言葉だけに<註>がつけられている点から、この母の言葉は比較的実際の発語に近いのではないかと思われるがどうか。

「賢治はおであんしたからどうぞ」と賢治の母親の優しい聲に誘われ、私はちょっとあいさつして(中略)賢治の母は早速お茶を持つて室に来た「どうぞおあげんせ」と出され、私は恐縮して「ども……」と簡たんに頭をさげたが、賢治は自分の母に對してひざをついてていねいに「ありがとうございました」とお禮したのを見て、今だやつたことのないていねいさで再びお禮を申し上げたことは今だに頭の中に残っている。
                           (「賢治抄録」千葉恭)(2)

 上品であることは間違いない、と思う。だが「ざしき童子のはなし」における「ぼっこ」と「わらし」の違い(同じ地域でも金持ちの子は<ぼっこ>農家だと<わらす>と呼ばれる:牛崎副館長の講義中の指摘)のような明確な差異がこの中に現れているのかどうかは残念ながら判断できない。SAの阿部さんの友人(花巻富裕層の出身)のご意見を伺いたいところである。

いち女は、何ごとにも控へめで、いつも内側から人をあたゝかく包むと云つた風な人で、まことに温和そのものの婦人である。のちに彼女は賢治を失つて以来、時折、思ひだしては、賢しゆ(・・)が死んでから、今頃になつて世間で偉いの何のと云つたつて所詮甲斐ないことだと云つて歎くと云ふことである。ここで、ある折に清六氏が、「兄がかう云ふ風になつたのは、幼い時分にあなたが、世のため、人のためになれよ、と訓へたからです。」と云つたと云ふが、まことに哀れふかい話である。
                   (「宮澤賢治の両親について」小田邦雄)(3)

宮澤賢治大辞典」(勉誠出版・平成19年刊)によれば、イチの実家「宮善」は一代で巨万の富を築いたといわれるが、イチの幼い頃はまだ経営規模が小さかったという。中等教育は受けず、豊沢町にあった香梅舎という寺子屋で裁縫等を習い、宮沢政次郎と結婚したのは18歳のときである。ただ、上記のようなエピソードをみると、賢治があの独特の言語感覚を獲得してゆくうえでの土台となる<感性>は間違いなく母・イチによって育まれたものと思われる。

●付録:トシについて
 トシ先生は、物静かでいろの白い。生徒たちのあこがれの先生でした。(中略)放課後のその補習が終わると、トシ先生は、「寒いから気をつけてお帰りなさいね」と言ってくれるんです。
 上品で、しとやかで、いつもきちんとした標準語で話をされました。
(佐々木芳子)(4)

 「敏子様大変お嬉しそうでいらつしやいますね。」
 「うちの兄が盛岡高等農林の受験にパスしたとうちから手紙がまいりまして。」とにっこりなさいました。
  このお話は大正四年の春四月、目白女子大学責善寮の一室で、その当時もつともハイカラだつた榮螺の壺焼のような髪を結うた賢治さんの妹さんの敏子さんと私の対談でございました。(中略)
 或日、敏子さんが沢山の歌稿をもつておいでになりまして、「兄が貴女になおして下さい、とのことでございますから。」と仰有いましたが、(後略)
                            (「追憶」宮澤はる)(5)

この宮沢はるという人は「賢治様の御祖父様の弟」を父に持つ、つまり親戚なのであるが、親しい間柄でもこのような上品な言葉づかいで会話していたのであろうか。トシと同じ女子大を出、のちに同じく花巻高等女学校に奉職したという才媛ぶりゆえであろうか。
ひとつ言えることは、宮沢家の人々が、標準語から方言まで様々な言葉のバリエーションを自在に使い分けていたであろうということである。
宮沢家の会話を聞いてみたい、とつくづく思う。

●おわりに
三者三様の「あめゆき」にはその人の歴史と思想を反映したそれぞれの賢治があった。賢治という<現象>を通して、その人自身が表現されている、とでも言おうか。
ふと「春と修羅」の「序」の一節を思う。

 わたくしといふ現象は/(中略)/因果交流電燈の/ひとつの青い証明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

賢治という「電燈」は失われても、その「現象」は「いかにもたしかにともりつづけ」ている。研究・発表というかたちで賢治に関わっているひとだけでなく、その生涯に思いをはせ、その作品を味わうひとはすべて、賢治を構成する様々な要素のなかに自分自身とつながるなにか見出し、賢治とともに<明滅>しながら自らの生を生きるのだ。

 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)
ひとと接することはほんとうに楽しいなあ、と思う。花巻に行かなければ絶対に学べなかったことを沢山学ばせていただいた。お世話になった皆さんに深く深く感謝したい。

<引用文献>
1)「宮沢賢治全集 1」ちくま文庫,1990・7・30発行 第7刷
2) 3) 5)「宮澤賢治研究Ⅰ」筑摩書房, 昭和56・2・26発行 新装版第1刷
4)「教師宮澤賢治のしごと」畑山 博, 小学館,1990・11・20発行 初版第7刷

<ほか参考文献>
・「宮澤賢治研究Ⅱ」 筑摩書房          昭和33・8・15発行 新装版第1刷
・「図説 宮沢賢治」 ちくま学芸文庫       2011・5・10発行 第1刷
・「文芸読本 宮澤賢治」 河出書房出版社     昭和61・3・20発行 三版
・「宮澤賢治覚書」 草野心平  講談社      1991・3・10発行 第1刷
・「宮澤賢治」 吉本隆明 ちくま学芸文庫     2003・4・10発行 第3刷
・「精選 名著復刻全集『春と修羅』」日本近代文学館 昭和54・2・1発行 第10刷    
・「宮沢賢治全集9 書簡」 ちくま文庫      2003・3・25発行 第5刷                               

雪国の春 --- 陶芸コース 江口晴美

[2013年度東北地域学 第一課題レポート]

雪国の春 --- 陶芸コース 江口晴美



  「雪国の春」(柳田国男著 角川文庫 昭和46年5月30日 改版初版発行)を読んだ。
  読後、次の二点に関心を持った。 その一つは、柳田国男は毎年のようにどこかの村里を歩き、「海南小記」と「雪国の春」の二冊の紀行を残した。この二冊を通し、北と南と日本の両端の違った生活を並べてみようとした動機が、個人の物ずきではなく、国の結合の憂いにあり、それを気軽な紀行風に取扱い、この方面に本が乏しく、あっても高い所から見たようなものばかりであると考え、出でて実験についたことである。もう一つは、身近な正月行事の事例を通し、雪国の生活文化、人々の人情、感情を描写し、雪国の将来を若い女性の手に委ねると考えていたことである。「幸いにして家の中には明るい囲炉裏の火があり、その火のまわりにはまた物語と追憶とがあった。何もせぬ日の大いる活動は、おそらく主として過去の異常なる印象と興奮との叙述であり、また解説であったろうと思う。すなわち冬籠りする家々には、古い美しい感情が保存せられ培養せられて、つぎつぎの代の平和と親密とに寄与していたのである。その伝統がゆくゆく絶えてしまうであろうか。はたまた永く語りえぬ幸福として続くかは、結局は雪国に住む若い女性の、学問の方向によって決定せられ、彼らの感情の流れ方がこれを左右するであろう」(同書25ページ)。


  2011年3月の東日本大震災後、主人と二人で、昨年10月に岩手県、今年6月に福島県を訪れた。大震災後の現状と復興が気になり、現地の人々と少しでも気持ちが共有できればとの思いで旅をした。 
  岩手では、元会社の同僚が遠野市でBBスタイル(ベッドと朝食のみ)の民宿を経営し、ボランティア活動の人々の宿泊受け入れのために多忙であった。彼の車で釜石市、大槌市の港まで案内してもらい、被災地の現状を見て回った。
  復興に向けて『復興食堂』を運営する青年たちと出会い、話をするなかで復興にかける彼らの情熱がひしひしと伝わってきた。被災地の現状は復興の兆しが見えない。厳しい寒い冬を迎えるに当たり、彼らの決意と具体的な行動に粘り強さ・我慢強さをその動きや言葉の中に見ることができた。これからの東北の再建と発展を祈らずにはいられなかった。

 
  福島では、6月に東北6県の鎮魂祭りが郡山市で行われると知り主人と出かけた。大震災後の東北6県の復興を込めて、各県の代表祭りが一同に会した。秋田の笠燈まつりの時、強い風が吹き、燈明が風にあおられ、倒れる場面があった。演技者は必至に再度立て直しに挑戦した。沿道からものすごい拍手が湧きあがった。 東北が一つになった瞬間であった。ねぶた祭り等、各県の伝統ある祭り見ながら、各県の復興にかける思い・情熱が参加者の姿をとうし、その熱い気持ちが伝わってきた。ブルーインパルスが上空を飛行し、空中に復興への象徴として6つの輪を描いた時、沿道ではどよめきが起きた。復興への思いが沿道の一人一人の心に刻みこまれたに違いない。個人的には、復興支援の力はないが、東北2県を旅行し、現実の場面を、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分で体験することの大切さを痛切に感じた。郷土の伝統・文化が精神的にどん底へ落ちた人間の情感に蘇生へのエネルギーを与える大きさも改めて知らされた。柳田国男が長い年月をかけて村里に入り、人々の身近な生活を見て、話をしたり、聞いたり行動を起こした。その行動の中に日本の将来を憂い、国民意識の結合を見出そうとした視点や洞察力に驚いた。

 
  囲炉裏について、「家の中には明るい囲炉裏の火があり、その火のまわりにはまた物語と追憶とがあった」(同書25ページ)、「人間が家を持ち家族というものを引きまとめえたのは、火の発見の結果といってよろしい。光と温度と食物との一大中心として、囲炉裏というものがもしなかったならば、とうてい今観るような家庭および社会はできあがらなかったろう」(同書56ページ)と柳田が指摘している。私が子供の頃、家が狭くなったため囲炉裏は炬燵に変わった。冬の寒い時など暖を取るために家族全員が集まる場所といえば炬燵であった。家族みんなでよく話をした。両親から先祖のこと、故郷のこと、将来のこと、勉強のこと、戦争のことなど、よく聞かされた。今思うと、炬燵はその暖かさ故に家族を引き寄せ、家族の歴史が語られた場でもあった。私は炬燵の中で本を読んだり、あまりの暖かさで寝入ることがしばしばであった。家族全員が自分の足を炬燵の狭い空間に入れ、和気あいあいと談笑できた時間は、家族の絆を強くした時間であった。現在、我が家では掘り炬燵がある。お客様をお招きする時以外は、めったに使わない。エアコンのお陰で使う必要がなくなったのである。冷暖房が各部屋に取り付けられ、子どもたちには個室が与えられるようになった。生活は物質的には豊かになったが、精神的な絆は薄らいできたように思う。我が家では、家族全員が集まって近況を聞いたり、話したりする場所は夕食の食卓へと変わった。 会社勤めしていた頃、母に協力してもらいながら子育てをしていた私にとって、この夕食の時間は子ども達と心の交流ができる唯一の時間であった。土曜・日曜の食事は必ず手料理を子どもたちに食べさせると決め、子どもたちの好きな料理や栄養バランスを考えた料理を中心につくって食べさせた。短い時間ではあるが、子どもたちと「心と心を通わせる」唯一の時間が食事の時間であった。食卓テーブルを囲み、三世代の家族が安心して、くつろいだ雰囲気の中で食事ができることは、親から子へと続く家族の絆が受け継がれる大切な場になるのではなかろうか。                   
 

  雪国の将来について、柳田国男は「結局は雪国に住む若い女性の、学問の方向によって決定せられ、彼らの感情の流れ方がこれを左右するであろう」(本書25ページ)と指摘した。この指摘は、雪国の将来だけではなく、日本や世界の国々の将来を左右する指摘でもある。私がある出版社に勤務し始めた1970年代頃、アメリカでウーマンリブ運動がおこった。女性の大学進学率が向上し、女性も男性と同じように働き、各分野に女性の社会進出が顕著となった。女性の意識に変化が現れ始めた。1986年に男女雇用機会均等法が施行され、1992年には育児休業制度が施行され、法整備も少しずつ進んだ。こうした大きな流れは現実的にはなかなか理解されなかった。日本の企業は女性従業社員に対して、コピーやお茶汲みなどの雑務をまかせ、寿退社までの腰掛的存在でしかなかった。この労働環境下で、私は男性と同じように夜遅くまで残業し、それから接待、タクシーで朝帰りすることもしばしばであった。「会社を良くしたい」という思いはなかなか会社に理解されず、「残業代稼ぎ」とか「女のくせに」などと陰口を言われた事が悔しかった。柳田が「若い女性の学問、感情が雪国の将来を左右する」と考えた視点は素晴らしい。東北を歩き回り、現実の生活の中に、女性の可能性を見出し、将来を期待したことは評価したい。
  これからの時代に大切なことは、「自分の足で、自分の目をとおして、そして行動する」「食育をとおして、家族の絆、生活文化を受け継ぐ」「教育をとおして、生きる知恵をつける」ことであると考える。 インターネットで簡単に必要な情報は手に入れる事はできるが、それを使いこなす知恵がなければ不幸である。氾濫する情報にまどわされないためにも、生活に根ざし、自然と共生しながら、自分の五感を磨くことが重要になってくるだろう。
  そのためにはこれからの時代は「食卓テーブル」をキーワードに提唱したい。柳田が見た囲炉裏は、これからの時代は「食卓テーブル」ではないか。家族が、友人・知人が、同僚が集まり、趣味、仕事、将来、夢等を語る場が「食卓テーブル」である。食事を楽しみながら、親から子、孫へ、現在から未来へと伝統・文化は受け継がれることを期待したい。

 

 

映画『千と千尋の神隠し』にみる日本における地獄的なものについての考察 --- 福谷知恵

【2012年度日本文化論レポート】

映画『千と千尋の神隠し』にみる日本における地獄的なものについての考察 --- 陶芸コース 福谷知恵



 人間の苦悩について、釈迦は苦しみの原因は欲望であると説いた。生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不会苦の原因が欲望であるということである。欲望は3つに分けられる。欲愛、有愛、無有愛である。人やものなど何かを求める欲愛、自らが存在したいと求める有愛、破滅や死など無への欲望が無有愛である。

 私が、テキストを読み、地獄的なもの、ということでまず思い出したのは、宮崎駿のアニメーションである。千と千尋の神隠しは、欲望にまみれて貪り、豚になる主人公の両親や、人の心を求めてなんでも食らうカオナシや、他にも、そこここにいかにも現実にもいそうな、欲に心が半分囚われているような登場人物が現れる。その中で、主人公が成長し、心が自立していく様を描くのがこの物語である。千と千尋の神隠しは、主人公の千尋以外には、はっきりと悪、または善、と言い切れる登場人物が少ないように思う。主人公を助けるハクでさえも、一時は悪意のある人物ではないかと疑える期間がある。実は良い人でも見た目が奇妙な窯じいや、気風も面倒見も良いがイモリの黒焼きで千尋の面倒を渋々みることになった千尋の先輩や、他にも、腐れ神などは皆から忌み嫌われるが実は人間に汚された川の神様であったりする。そんなキャラクターが登場する。心に飢えて人を食らうカオナシなどは、その衝動が、悪というより寂しさからだということを示唆されている。これは特に人間的であると感じる。これらの登場キャラクターは、勧善懲悪のようなわかりやすい分け方がしにくいところがあるように思う。

 これらから次のようなことを感じる。心に最初から悪があることも場合によりあるかも知れない。しかし実は、悪のように見える行為の裏に、その原因となる感情や気持ちがあり、それが膨大したり執着したために、人を害したり貪ったり、利己的な行動に結びつく、というように考えられる。元の感情が、人の行動を誤変換させ、誤作動させてしまう、という風に見えるのである。そのようなことは、現在の社会においても見えるような事柄であるようにも思う。人間の心が多面的であり、また、元の感情から外の世界の反応を受けて反射し、行動がその都度選択されている、ということである。つまり、最初から悪意があるというより、心の中の、何かを求める飢えが求めてかなえられないことに対しての反応が、徐々にゆがめられていったようにも見えるのである。求めても、得られないものはあると思う。その時、自分自身がどのように反応するか、によって次の自分自身が作られていく、ともいえるように思う。そこに執着して、その場所から、同じところを責め続け、他者を責め自己を滅ぼしてしまうか、それとも、求めて得られないことからは心のロックオン状態を外し、別の視点から努力を進めるか、であるように思う。良心に沿って生きたいと願っていても、何かに執着して外れなくなってしまった心は、冷静に自分を外側から眺めることはできにくいだろう。自分が独善的であることも、執着のさなかに居ては判断できないかも知れない。ロックオン状態を外すにはどうしたら良いのだろう。それは人の永遠の課題であるようにも思う。ロックオン状態は、最初に記した「生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不会苦」という苦しみを自分の心でより大きく育てていくことになるのではないかと思う。

 また、この作品は、様々な登場キャラクターを使い、次のような事柄を作者はあらわしているようにも思える。それは、人間は、完成形はないということ。全員生きる途中の姿であるということ。変化するということ。右と左、暗と明、清と濁、悟と迷、というように、大きく小さく迷いながら蛇行しながら生きていく存在なのだということを感じる。人間は愚かだが、愛しくいたいけなものでもある、ということや、釈迦が救いたいと考えた人々の心の奥に潜む自灯明の光と可能性の存在を、一見醜悪に見える登場人物の奥に光らせているように感じるのが、宮崎作品と感じる。そのような揺らぎの中で、わずかな自灯明の光を見失わないよう、見失ったらまた灯して、その灯を頼りに生きることが人間というものであるというような解釈をしたくなる作品と私自身は感じる。その光を見失ったとき、目の前にある事象に引き寄せられて、いちいちと反応をし苦しむ地獄に陥るのかも知れない。まさに地獄は自分の心の中につくるようなものではないか、執着に生まれるものではないだろうか。例えば、このアニメーション映画は、実際に存在するわけではない世界を、アニメーションを媒体として、人の心に生み出すのである。セル画やCGなどで作られた平面のいくつか色を塗り分けられた物体を人は見て、その人自身の心の中にその世界を自分自身で作り上げる。想像する。実際そこにはセル画やCGの色や光の断片でしかないものを見ただけだが、その人の心に存在する世界となる。地獄も、人のこころのなかで次第に作られている、実際には存在しないが存在する出来事なのかも知れないと感じる。

 悪や、憎しみを知らない人は幸運である。だが、悪や憎しみは、人として生きるうち、知らない人の方が稀有であろう。なぜなら、人が生きるということは、つねに、苦しみと隣り合わせと感じるからである。

 私自身は、20代の頃に父を失ったが、今も、どこかで父親の存在を感じながら暮らしているように思う。人の心とは、不思議なものだと思う。お葬式、お通夜、法事など、非日常の催事のなかで、地獄、というよりも、このいま生きている世界とは違う世界というものを、言葉に出さずとも感じる瞬間が多々あった。今生きているものが、時を跨ぐと存在しなくなる瞬間。突然訪れる別れというものは、私に名前の通り、愛別離苦、というものを教えた。そこからうまく乗り越え、悟れたとはまだ自分では思えないが、ただ、周りの愛しい人々との愛別離苦の瞬間の存在を確実に認識するようになった部分はあるような気がする。

 人々が失ったり得られなかったりする執着の思いにとらわれ、自らもっと大きな地獄に落ち込むことがないように源信法然は他力により救われる浄土の信仰を広めたのかと感じる。私自身も、同じ状況の中で、心境が変わると随分違う感じ方をするものだと驚く時がある。

 「千と千尋の神隠し」の主人公千尋も、最初は弱いキャラクターであったが、心境が変わっていく中で、少しずつ強くなっていく。このようなこわい所に来てしまった、逃げたいという気持ちから、涙が止まらない状況へとなる。だが逃げだしたい気持ちを手放して、能動的に向き合った時、主人公は強くなるのである。

 この作者の作品が、アニメーション作品として、長く日本の人々に求められ受け入れられることの一因には、美しくきれいなものだけではなく、人間の心にある醜さや弱さ、やりきれなさなどを含む人間全体を受け入れるような意識を持たれているからなのではないかと感じる。人の心にあるものを否定せずに、精一杯人を見つめていくという作業をされたのではないかと感じる。

参考文献
1.梅原猛著 『地獄の思想-日本精神の一系譜(改版)』 中公文庫 2009年

環境文化論・飛騨 スクーリング・レポート  稲村弥奈子

【2012年度 環境文化論・飛騨】


環境文化論・飛騨 スクーリング・レポート --- 染色コース 稲村弥奈子



 本講座の受講により初めて飛騨高山へ訪れたが、その中で最も印象に残ったのは地域に根ざして生活することの魅力である。
 2日目の夜、中路先生に連れていただいた「みちや寿司」のご主人や、先生がお話して下さった猟師の方のお話は、初めて聞く内容ばかりで、とても興味深い体験であった。
 私にとって猟師と聞いて連想するのは、スタジオジブリのアニメ『もののけ姫』に登場する地走りである。これまで深く追求したことはなかったものの、猟師とは常に獲物を仕留めることを考えている冷徹なハンターなのだと漠然と認識していた。
 しかし今回、実際に猟師の方のお話を聞いて、これまでの猟師に対するマイナスイメージが完全に払拭された。猟師と寿司職人の2つの顔を持つ「みちや寿司」のご主人は、実直そうな印象で、思い立ったらチャレンジする好奇心と行動力、そして山や海への畏敬の気持ちを抱きながら、真摯に、楽しく毎日を生きておられるように感じた。
 また朝市では、出店されている年配の女性と親しくなった。彼女は非農家出身で旦那様と大恋愛の末、農家へ嫁ぎ、以来五十年以上農業を営んできたという。先代から受け継いだ世界で唯一彼女の家にしかないというアネモネの品種を守り伝えていくのだと語る、その言葉の端々に充実した生活への感謝と誇りが滲んでいた。独自品種創出という高い農業技術を持っておられることに驚きつつ、都会の暮らしをしたいと考えたことはないのかと問えば、「昔は考えたこともあったが、今の生活こそ私が私である証だから田舎暮らしがいい」と、胸を張っておられた。
 私は、お2人との素敵な出会いを経て、飛騨という地域に根ざした生活者たちの魅力を感じずにはいられなかった。都会のように娯楽も刺激もない、何かと不便な田舎で、なぜ彼らはいきいきと充実した生活を送っていけるのか。それは、生きるとは実はとてもシンプルなことだと知っているからではないだろうか。
 これまで私は、人間がすべてにおいて優れた生物だという無意識を、議論の余地もない大前提として生きてきたように思う。それにより、肥大化する自尊心と疲弊する感受性に悩まされつつ、それを認めたくない、誰かに見抜かれたくない一心で、必要以上に自身を誇張してみせていた。飛騨のお2人の生活に触れ、必死に飾り立てて生きる必要などまったくないことに、ようやく確信を持てた。彼らが魅力的なのは、自らの分をわきまえ、あるがままの状態で、自然体に、周囲に寄り添って生活しているからではないか。根ざすとはつまり、分を知るということなのかもしれない。
 私は現在、奈良県農業大学校で農業の勉強をしている。地道な農作業はとても素朴だが、これまでの都会生活以上に刺激的で充実している。シンプルで率直な感性を持った若者達や、経験豊富な人生の先輩方と共に送る学校生活の中で、遅ればせながらようやく必要のない装飾を外し、分を知る覚悟ができそうだ。(1.198字)