映画『千と千尋の神隠し』にみる日本における地獄的なものについての考察 --- 福谷知恵

【2012年度日本文化論レポート】

映画『千と千尋の神隠し』にみる日本における地獄的なものについての考察 --- 陶芸コース 福谷知恵



 人間の苦悩について、釈迦は苦しみの原因は欲望であると説いた。生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不会苦の原因が欲望であるということである。欲望は3つに分けられる。欲愛、有愛、無有愛である。人やものなど何かを求める欲愛、自らが存在したいと求める有愛、破滅や死など無への欲望が無有愛である。

 私が、テキストを読み、地獄的なもの、ということでまず思い出したのは、宮崎駿のアニメーションである。千と千尋の神隠しは、欲望にまみれて貪り、豚になる主人公の両親や、人の心を求めてなんでも食らうカオナシや、他にも、そこここにいかにも現実にもいそうな、欲に心が半分囚われているような登場人物が現れる。その中で、主人公が成長し、心が自立していく様を描くのがこの物語である。千と千尋の神隠しは、主人公の千尋以外には、はっきりと悪、または善、と言い切れる登場人物が少ないように思う。主人公を助けるハクでさえも、一時は悪意のある人物ではないかと疑える期間がある。実は良い人でも見た目が奇妙な窯じいや、気風も面倒見も良いがイモリの黒焼きで千尋の面倒を渋々みることになった千尋の先輩や、他にも、腐れ神などは皆から忌み嫌われるが実は人間に汚された川の神様であったりする。そんなキャラクターが登場する。心に飢えて人を食らうカオナシなどは、その衝動が、悪というより寂しさからだということを示唆されている。これは特に人間的であると感じる。これらの登場キャラクターは、勧善懲悪のようなわかりやすい分け方がしにくいところがあるように思う。

 これらから次のようなことを感じる。心に最初から悪があることも場合によりあるかも知れない。しかし実は、悪のように見える行為の裏に、その原因となる感情や気持ちがあり、それが膨大したり執着したために、人を害したり貪ったり、利己的な行動に結びつく、というように考えられる。元の感情が、人の行動を誤変換させ、誤作動させてしまう、という風に見えるのである。そのようなことは、現在の社会においても見えるような事柄であるようにも思う。人間の心が多面的であり、また、元の感情から外の世界の反応を受けて反射し、行動がその都度選択されている、ということである。つまり、最初から悪意があるというより、心の中の、何かを求める飢えが求めてかなえられないことに対しての反応が、徐々にゆがめられていったようにも見えるのである。求めても、得られないものはあると思う。その時、自分自身がどのように反応するか、によって次の自分自身が作られていく、ともいえるように思う。そこに執着して、その場所から、同じところを責め続け、他者を責め自己を滅ぼしてしまうか、それとも、求めて得られないことからは心のロックオン状態を外し、別の視点から努力を進めるか、であるように思う。良心に沿って生きたいと願っていても、何かに執着して外れなくなってしまった心は、冷静に自分を外側から眺めることはできにくいだろう。自分が独善的であることも、執着のさなかに居ては判断できないかも知れない。ロックオン状態を外すにはどうしたら良いのだろう。それは人の永遠の課題であるようにも思う。ロックオン状態は、最初に記した「生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不会苦」という苦しみを自分の心でより大きく育てていくことになるのではないかと思う。

 また、この作品は、様々な登場キャラクターを使い、次のような事柄を作者はあらわしているようにも思える。それは、人間は、完成形はないということ。全員生きる途中の姿であるということ。変化するということ。右と左、暗と明、清と濁、悟と迷、というように、大きく小さく迷いながら蛇行しながら生きていく存在なのだということを感じる。人間は愚かだが、愛しくいたいけなものでもある、ということや、釈迦が救いたいと考えた人々の心の奥に潜む自灯明の光と可能性の存在を、一見醜悪に見える登場人物の奥に光らせているように感じるのが、宮崎作品と感じる。そのような揺らぎの中で、わずかな自灯明の光を見失わないよう、見失ったらまた灯して、その灯を頼りに生きることが人間というものであるというような解釈をしたくなる作品と私自身は感じる。その光を見失ったとき、目の前にある事象に引き寄せられて、いちいちと反応をし苦しむ地獄に陥るのかも知れない。まさに地獄は自分の心の中につくるようなものではないか、執着に生まれるものではないだろうか。例えば、このアニメーション映画は、実際に存在するわけではない世界を、アニメーションを媒体として、人の心に生み出すのである。セル画やCGなどで作られた平面のいくつか色を塗り分けられた物体を人は見て、その人自身の心の中にその世界を自分自身で作り上げる。想像する。実際そこにはセル画やCGの色や光の断片でしかないものを見ただけだが、その人の心に存在する世界となる。地獄も、人のこころのなかで次第に作られている、実際には存在しないが存在する出来事なのかも知れないと感じる。

 悪や、憎しみを知らない人は幸運である。だが、悪や憎しみは、人として生きるうち、知らない人の方が稀有であろう。なぜなら、人が生きるということは、つねに、苦しみと隣り合わせと感じるからである。

 私自身は、20代の頃に父を失ったが、今も、どこかで父親の存在を感じながら暮らしているように思う。人の心とは、不思議なものだと思う。お葬式、お通夜、法事など、非日常の催事のなかで、地獄、というよりも、このいま生きている世界とは違う世界というものを、言葉に出さずとも感じる瞬間が多々あった。今生きているものが、時を跨ぐと存在しなくなる瞬間。突然訪れる別れというものは、私に名前の通り、愛別離苦、というものを教えた。そこからうまく乗り越え、悟れたとはまだ自分では思えないが、ただ、周りの愛しい人々との愛別離苦の瞬間の存在を確実に認識するようになった部分はあるような気がする。

 人々が失ったり得られなかったりする執着の思いにとらわれ、自らもっと大きな地獄に落ち込むことがないように源信法然は他力により救われる浄土の信仰を広めたのかと感じる。私自身も、同じ状況の中で、心境が変わると随分違う感じ方をするものだと驚く時がある。

 「千と千尋の神隠し」の主人公千尋も、最初は弱いキャラクターであったが、心境が変わっていく中で、少しずつ強くなっていく。このようなこわい所に来てしまった、逃げたいという気持ちから、涙が止まらない状況へとなる。だが逃げだしたい気持ちを手放して、能動的に向き合った時、主人公は強くなるのである。

 この作者の作品が、アニメーション作品として、長く日本の人々に求められ受け入れられることの一因には、美しくきれいなものだけではなく、人間の心にある醜さや弱さ、やりきれなさなどを含む人間全体を受け入れるような意識を持たれているからなのではないかと感じる。人の心にあるものを否定せずに、精一杯人を見つめていくという作業をされたのではないかと感じる。

参考文献
1.梅原猛著 『地獄の思想-日本精神の一系譜(改版)』 中公文庫 2009年