音楽の根源にあるもの

【2011年度 詩と音楽への案内】

「音楽の根源にあるもの」 芸術学コース 山田彩加


1、はじめに
 私が、参考文献を通読し、強く関心を抱いた一節は“まえがき”冒頭に書かれた以下の一節である(1)。

 「音楽について語ることは、一般に楽しいが、時として苦痛である」

 著者にとって、一体音楽について語るどの部分が一体苦痛なのだろうか? 私自身にとって、音楽は日常であり楽しむこと以外を知らない無知さ故、この一節に強く関心を抱いた訳である。音楽とは、人にとってどのようなものなのだろうか?それは苦痛を伴うものなのだろうか?苦痛が故に楽しいものなのだろうか? 無くてはならないものなのだろうか?
 様々な疑問を持ちながら、私はこの一節を日々心で繰り返し、考えた経過をここに記したいと思う。
 一番問題にしたい点は、“音楽は果たして楽しいものなのだろうか?”という私の素朴な疑問である。

2、私にとっての音楽
 まず、始めに私自身が今迄音楽についてどう感じていたのかを考察してみようと思う。
 もの心付いた時から、家にはテレビやコンポというオーディオ機器があり、カラオケがあり、家族や友人と音楽を共有する環境は沢山あった。しかし、幼き頃に母のススメで習ったピアノは決してものにした訳でもないので、どちらかと言えば与えられてきたものだった。それが、思春期になると環境の変化や情報を自ら得られる機会に恵まれ、好きな歌手のCDを買うようになり“音楽”という共通点で友人と繋がる機会も持てた。その時の私にとって、こころの奥から楽しむものというよりも、ひとつのツールのようなものだった気がする。
 それが、明らかに覆された貴重な経験がある。それは5年程前にチケットを頂いたことがきっかけでたまたま行った“タップダンス”の公演だった。“タップダンス”とは、専用シューズ(靴底に金属がついているもの)を履いて、カタカタと音を出すものである。日本で有名と言えば、北野武監督の座頭市が挙げられるだろう。色々な音楽があるのは知っていたが、こんなに魂を感じるものがあったのかと帰り道は興奮が収まらなかった。
 身体ひとつと、シューズで創り出す音楽は力強く、光輝いていた。更にそこには果てない未来が見えた気さえしたのだ。これが、音楽になり得るものならば、世界だって変えることが出来るのではないか、と本気でそう思った。少なくとも、その場に居た人たちの感動はあったはずだ。それがきっかけで“タップダンス”を趣味ではあるが、始めるきっかけにもなった。それからというもの、“タップダンス”を通じて音楽や音、それから魂という見えないものについて非常に興味と好奇心を持つことになった。

3、音楽のちから
 私たち人間にも、生きるもの全てには魂があるのではないだろうか。それが、見えるかどうかは別として、時々それを感じたことは誰にでもあるのではないだろうか。それは一体どんな時なんだろうか。前述したような、全てが覆るような経験をすると、音楽に内在する魂の存在と果てしない力強さを感ぜずにはいられない。私はここでまた一つ、例の一節を繰り返してみた。
 音楽のちからは、時として苦痛をもたらすものだったのかも知れない。ただ、楽しいものだけではない。何故なら、私には音楽を通じて人に伝えたいことがあまりに自己中心的過ぎると気付いたからである。それに向き合うということは、自分自身も気付かなかった(気付く必要があったかどうかは分からない)自身の奥底の部分と対峙することであり、楽しかったとはとても言えないように思う。客観的に自分を見ることは、時として残酷な一面も持ち合わせているからである。

4、音楽のかたち
 この世界には、数えきれない程の音楽が溢れている。私の住んでいる町中には音楽が溢れ、それが、売られているものであったり、生活から生まれたものだったり、何かに訴えかけるものだったりと様々な形態を持っている。“音楽”と日本語で書けば、文字通り楽しいものに感じるが、私達はそれに縛られているのかもしれない。なぜならば、英語表記の“MUSIC”という言葉のどこにも“楽”という意味は含まれていないように思う。だとすれば、音楽はただ楽しいだけのものではない、という事にだってなり得ると思う。
 実際にジャズのルーツ等は黒人の悲しい歴史の中で生まれて、今なお多くの人々の心を動かしている。音楽は決して商業のためだけにあるものではなく、人々が生きることそのものなのかもしれない。
 参考文献p17には、エジプト・ナイル川で行われているサーキアという方法で、地下水をくみ上げる際に老人や子供が歌う歌が一例として挙げられている。老人や子供にとっては相当過酷な仕事のはずで、そこで歌われている音楽は決して誰かを楽しませたりお金のために生まれたものではないと思う。著者が冒頭に挙げたように、時として苦痛に感じるのは、音楽について深く知れば知る程、その形なき奥深さに胸が締め付けられたからかもしれない。

5、ジプシーからのヒント
 まだまだ、もう少し答えに近づきたかった私は“ジプシーキャラバン”という映画を見ることにした。この映画は2006年に制作されたもので、インドにルーツをもつ移動型民族のロマ(ジプシー)たちが6週間かけて北米都市を回ったときのものを収めたドキュメンタリー映画である。その中には、音楽ひとつで43人もの子供を育て上げた歌手もいた。なんてカッコいいのだろうと感動せずにはいられなかった。フラメンコ奏者の女性がロマの音楽を語る時、“ドゥエンテ”というものの存在を知った。“ドゥエンテ”とは、感情を引き出す魔性の力のことであり、それは学び取るものでない。自然と内側から湧き出るものなのだ。彼らは誇り高き民族であるが、差別を受けてきたのも事実である。しかし、音楽を通じて彼らは自らの存在を世界に向け発信したのである。それは、とても勇敢な行為であり、多くの人を勇気づけたと思う。これこそが、音楽のもつ本来の力なのではないだろうか。誰かを勇気づけ、生き抜くために自らも奏で続ける。どんなものでも使って、彼らは奏で続けてきた。それこそが、音楽の本来の姿のように思う。

6、終わりに
 音楽は苦痛なのだろうか?それとも楽しいものなのだろうか?そんな疑問から出発し、正直未だ答えは見つけられなかった。しかし、それは私が今迄幸せに何不自由なく、暮らし得来た証拠のようにも思う。私にとっての音楽は楽しむものであったし、誰かに与えられてきたものだった。しかし一歩外に出てみるとそれは、人々が行きて来た足跡のようなもので、この幸せな島国ではなかなか考えづらい現実だと思う。
 世界では、生きる人々の生きた音楽が沢山溢れている。きっと商業目的のものの方が少ないのではなかと、思うほどである。




(1) 小泉文夫『音楽の根源にあるもの』平凡社ライブラリー、1994