「あめゆじゆとてちてけんじや」~「永訣の朝」の方言からみえてきたもの~

〔2013年度 環境文化論・花巻 スクーリング・レポート〕
      

「あめゆじゆとてちてけんじや」~「永訣の朝」の方言からみえてきたもの~ --- 陶芸コース 阿波野智恵子(筆名)



● はじめに
今回の花巻行で一番印象深かったのは、なんといっても講師のお三方に発音して頂いた「あめゆじゆとてちてけんじや」なのである。
 「永訣の朝」にあらわれる妹トシのこの言葉は、それが方言であることによってその空気をリアルに伝えているとともに、兄・賢治の真摯な祈りに呼応するように繰り返され、一篇全体に哀しくもうつくしく響き渡っている。ひらがなの表記から自然に頭の中に韻の美しさが立ち上っていくこの呪文めいたことばを、ふと、実際に耳で聴く方言で確かめたくなったのがきっかけであった。
「実はこんな方言はないんですよ。他の作品の方言も、ほとんど賢治のオリジナルなんです」佐藤勝館長に言われたひとことは衝撃的であった。しかしそれも、その時々に眼と心に映ずる心象風景を、よりイメージに忠実なかたちで総合的に表現しようとする、賢治の姿勢のひとつのあらわれであると言われればなるほどと思う。繰り返される推敲の問題とともに、詩篇春と修羅」における波状のレイアウトや、漢字・ひらがな・ローマ字等々の視覚的な表現方法が気になっていたからだ。
 それはそれとして、ではその表記と発音のズレはどう解消されるのか?
宮澤賢治研究をする人々の間には、定説めいたものがあるのかと思っていたら、これが見事にみんな違っていた。以下思い出して味わいながら、思うところを述べてみたい。

●三人三様の「あめゆじゆとてちてけんじや」
1) 佐藤勝氏 (宮沢賢治記念館館長)
<あめゆぎとってきてけじゃ>と聞こえた。
佐藤氏は、賢治の生家近くで生まれ育ち、祖父は賢治の学校の後輩、夫人は賢治の教え子の孫なのだそうだ。賢治にゆかりの人々にじかに接し、地域の空気を実感として知っているせいか、「あめゆき」でも、このあたりでは実際にはこう言う、というところにポイントが置かれた発語だったように思う。賢治が生まれ、生涯離れることのなかったこの花巻という土地、そういう土地に自分自身生まれ育ったことに対する誇りと責任感のようなものが、控えめな言葉の端々に感じられて嬉しい。
館内の展示と共に数々のエピソードを聞いた時間は贅沢そのものだった。賢治の生育環境(幼時から育まれた宗教観、地域における宮沢家の特殊な有り様とそれを根源とする父との葛藤など)がより高次の宗教を必要とし、それがのちの羅須地人協会、砕石工場の仕事へとつながってゆく。理想とする宗教性と、それを<利他>に実践するなかで抱え込まざるを得ない現実との相克――賢治の生涯にわたる多彩な活動を繋ぎ、自分なりに理解するためのひとつの道筋が見えた気がする。長時間付き合って頂いた事を感謝するばかりである。

2)牛崎敏哉氏(宮澤賢治記念館副館長)
<あめゆぎと(ッ)てきてけ(ン)じゃ>と聞こえた。
演劇的な<演出>を感じた。方言臭?が思いのほか薄いような気がしたので聞いてみると、大船渡の出身だそうだ。「言葉を聞けばどこの出身かわかる」という岩手においてはその差異が大きいのだろうかとも思ったが、「岩手(盛岡?)で長年暮らしてるとこんな感じになるんですよ」とのこと。やわらかく起伏するイントネーションはおそらくまぎれもない岩手のそれではあるが、何よりも言葉そのものを明瞭に聴き手に伝えるための抑制がはたらいていると思う。言葉の意味するところがすっとこちらのなかに入ってくる。賢治が実際にどう読まれることを想定して表記したか、ということよりも、そこにこめられた賢治の思いを自身消化していかに目の前の聴衆に伝えるかという点に立脚点が置かれているようだ。(もちろんその姿勢は広汎かつ深い研究に裏打ちされているに違いない)
東日本大震災の被災地で「虔十公園林」を朗読する話が強く印象に残った。農学校時代に戯曲を作り、生徒と共に上演した賢治の世界観が、新しいかたちと意味を付与されて、<いま>に生きている気がする。
なお、トシの言葉は病床にあって舌足らずになっていた状態であるとする説もあるそうだ。

3) 岡澤敏男氏 (元小岩井農場展示資料館館長)
<あめゆぎとてちてけんじゃ>と聞こえた。
今回会った人々のなかで最も熱く<賢治愛>を感じるひとである。このひとの「あめゆき」が、実はいちばん賢治のそれに近いのではないか、と思ってしまった。原文の「あめゆじゆ」を「あめゆぎ」と発音するところは三人とも同じであるが、後半の「けんじや」を佐藤氏が「けじゃ」、牛崎氏が「け(ン)じゃ」(あくまで個人的主観的な表記であるが)と発語したのに対し、岡澤氏ははっきりと「けんじゃ」と発音された。「ん、は入りますか?」と聞くと、「入ります」ときっぱり。
詩「小岩井農場」について実際にその行程を何度もたどり確かめ、先駆形や推敲のあとをひとつひとつ大切に丹念に検証されてきた人である。最終行の「わたくしはかつきりみちをまがる」(「春と修羅」掲載形)が「かつきりみちは東へまがる」(宮沢家所蔵自筆手入れ本)に直されていることに関して、<わたくし>という主語がなくなることによって行動の決意表明が弱まっているのでは?という質問に対し、「行動の主体が<わたくし>であることはすでに自明であり、それよりも進むべき<道>そのものが<かつきり>とまがっていることに強さがある」というようなことを述べられた。そして「賢治さんは無駄なことばは使わないんです。賢治さんはほんとうに文章がうまい」――崇敬、といっていいと思う。
まずありのままに受け取る。その上で検証し、自らの血肉として取り込む。その姿勢が「あめゆき」にも原文のもつ強さを感じさせたのだと思った。

●実は「オリジナルでない?」可能性
「賢治の言語感覚の土台をつくったのはこのお母さんでしょうね」
賢治の家族写真のコーナーを見ながら「あめゆき」に前後して佐藤館長がふと洩らした言葉である。その意見の拠るところをしっかりと聞いておかなかったのが悔やまれるが、
宮沢家は今も「花巻で一番の金持ち」であるそうだ。母イチの実家も同族の宮沢家であり、堂々たる蔵や家屋が何棟もそのまま残されていて圧倒される。富家のお嬢さんであるイチは近在の農民たちとは異なる言葉づかいをしていたものか。
母イチの、肉声の手がかりとなる記述をあつめてみた。

うんにや ずゐぶん立派だぢやい / けふはほんとに立派だぢやい(「無声慟哭」)(1)

「無声慟哭」のなかにトシとの会話としてあらわれる母の言葉は、地の方言(と思われる言葉)で話す。トシの言葉だけに<註>がつけられている点から、この母の言葉は比較的実際の発語に近いのではないかと思われるがどうか。

「賢治はおであんしたからどうぞ」と賢治の母親の優しい聲に誘われ、私はちょっとあいさつして(中略)賢治の母は早速お茶を持つて室に来た「どうぞおあげんせ」と出され、私は恐縮して「ども……」と簡たんに頭をさげたが、賢治は自分の母に對してひざをついてていねいに「ありがとうございました」とお禮したのを見て、今だやつたことのないていねいさで再びお禮を申し上げたことは今だに頭の中に残っている。
                           (「賢治抄録」千葉恭)(2)

 上品であることは間違いない、と思う。だが「ざしき童子のはなし」における「ぼっこ」と「わらし」の違い(同じ地域でも金持ちの子は<ぼっこ>農家だと<わらす>と呼ばれる:牛崎副館長の講義中の指摘)のような明確な差異がこの中に現れているのかどうかは残念ながら判断できない。SAの阿部さんの友人(花巻富裕層の出身)のご意見を伺いたいところである。

いち女は、何ごとにも控へめで、いつも内側から人をあたゝかく包むと云つた風な人で、まことに温和そのものの婦人である。のちに彼女は賢治を失つて以来、時折、思ひだしては、賢しゆ(・・)が死んでから、今頃になつて世間で偉いの何のと云つたつて所詮甲斐ないことだと云つて歎くと云ふことである。ここで、ある折に清六氏が、「兄がかう云ふ風になつたのは、幼い時分にあなたが、世のため、人のためになれよ、と訓へたからです。」と云つたと云ふが、まことに哀れふかい話である。
                   (「宮澤賢治の両親について」小田邦雄)(3)

宮澤賢治大辞典」(勉誠出版・平成19年刊)によれば、イチの実家「宮善」は一代で巨万の富を築いたといわれるが、イチの幼い頃はまだ経営規模が小さかったという。中等教育は受けず、豊沢町にあった香梅舎という寺子屋で裁縫等を習い、宮沢政次郎と結婚したのは18歳のときである。ただ、上記のようなエピソードをみると、賢治があの独特の言語感覚を獲得してゆくうえでの土台となる<感性>は間違いなく母・イチによって育まれたものと思われる。

●付録:トシについて
 トシ先生は、物静かでいろの白い。生徒たちのあこがれの先生でした。(中略)放課後のその補習が終わると、トシ先生は、「寒いから気をつけてお帰りなさいね」と言ってくれるんです。
 上品で、しとやかで、いつもきちんとした標準語で話をされました。
(佐々木芳子)(4)

 「敏子様大変お嬉しそうでいらつしやいますね。」
 「うちの兄が盛岡高等農林の受験にパスしたとうちから手紙がまいりまして。」とにっこりなさいました。
  このお話は大正四年の春四月、目白女子大学責善寮の一室で、その当時もつともハイカラだつた榮螺の壺焼のような髪を結うた賢治さんの妹さんの敏子さんと私の対談でございました。(中略)
 或日、敏子さんが沢山の歌稿をもつておいでになりまして、「兄が貴女になおして下さい、とのことでございますから。」と仰有いましたが、(後略)
                            (「追憶」宮澤はる)(5)

この宮沢はるという人は「賢治様の御祖父様の弟」を父に持つ、つまり親戚なのであるが、親しい間柄でもこのような上品な言葉づかいで会話していたのであろうか。トシと同じ女子大を出、のちに同じく花巻高等女学校に奉職したという才媛ぶりゆえであろうか。
ひとつ言えることは、宮沢家の人々が、標準語から方言まで様々な言葉のバリエーションを自在に使い分けていたであろうということである。
宮沢家の会話を聞いてみたい、とつくづく思う。

●おわりに
三者三様の「あめゆき」にはその人の歴史と思想を反映したそれぞれの賢治があった。賢治という<現象>を通して、その人自身が表現されている、とでも言おうか。
ふと「春と修羅」の「序」の一節を思う。

 わたくしといふ現象は/(中略)/因果交流電燈の/ひとつの青い証明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

賢治という「電燈」は失われても、その「現象」は「いかにもたしかにともりつづけ」ている。研究・発表というかたちで賢治に関わっているひとだけでなく、その生涯に思いをはせ、その作品を味わうひとはすべて、賢治を構成する様々な要素のなかに自分自身とつながるなにか見出し、賢治とともに<明滅>しながら自らの生を生きるのだ。

 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)
ひとと接することはほんとうに楽しいなあ、と思う。花巻に行かなければ絶対に学べなかったことを沢山学ばせていただいた。お世話になった皆さんに深く深く感謝したい。

<引用文献>
1)「宮沢賢治全集 1」ちくま文庫,1990・7・30発行 第7刷
2) 3) 5)「宮澤賢治研究Ⅰ」筑摩書房, 昭和56・2・26発行 新装版第1刷
4)「教師宮澤賢治のしごと」畑山 博, 小学館,1990・11・20発行 初版第7刷

<ほか参考文献>
・「宮澤賢治研究Ⅱ」 筑摩書房          昭和33・8・15発行 新装版第1刷
・「図説 宮沢賢治」 ちくま学芸文庫       2011・5・10発行 第1刷
・「文芸読本 宮澤賢治」 河出書房出版社     昭和61・3・20発行 三版
・「宮澤賢治覚書」 草野心平  講談社      1991・3・10発行 第1刷
・「宮澤賢治」 吉本隆明 ちくま学芸文庫     2003・4・10発行 第3刷
・「精選 名著復刻全集『春と修羅』」日本近代文学館 昭和54・2・1発行 第10刷    
・「宮沢賢治全集9 書簡」 ちくま文庫      2003・3・25発行 第5刷