生と死の際にある「津軽」  陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)

【芸術環境演習・津軽】スクーリングレポート

生と死の際にある「津軽」 --- 陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)


 神明宮の記憶が、頭のどこかにずっと、ある。触れることも、それについて考えることも障りがあるような、直視が憚られるような恐ろしさ。時間と距離を置いて眼前の現実でなくなってようやく意識に乗せることが可能にはなったが、畏れは依然として消えない。神でも仏でも、いわゆる心霊でもない、自然といっても地霊といってもどこか言い足りない<なにか>。その本体はわからないが、今回の津軽行を考えるうえで避けては通れない体験だったという思いが強い。以下せめて周辺の印象を抽出することで、私なりの<津軽>を考える端緒としたい。

 命と引き換えの厳しい祈願、という気がした。馬の像の台座に男女あわせて7~8人の奉納者名が刻されている。住所と、姓名の下に年齢。まるで墓碑銘のようだと思った。あるいは誓紙、契約書か。五十代後半の女性を筆頭に、年齢順、男性はすべて同姓であるところから兄弟姉妹と思われる。自分が何者であるか、逃げ場のないほど残りなくさらけ出している。末尾には石材店の名前まで連帯保証人のように記されている。
 中路先生のお話では、日中戦争で軍馬として徴発された飼い馬のための像が先にあり、ここに記された一族に「何か」があったときにしかるべき人にお伺いをたてその指示をうけてこのように祀られたものだろうということだった。反対側の塔にもやはり台座に十数人の奉納者銘があり、「厄除記念」とある。「祈念」でも「祈願」でもなく「記念」。言霊の力を頼みに、眼を瞑ったまま一心に唱え続けてそれが過ぎ去るのを待つような感覚だろうか。ふと談山神社の十三重塔を思い出した。馬の傍には龍の浮き彫りがあるやや小ぶりな手水鉢。違和感のもとは、つくりも周囲の状況も、これが実用として使われるようには全く思えないことだ。至る所で<死>を突きつけられているような気がする。
 過去のある<モノ>を再び祀る。それは今の不安な状態と過去の何らかの事象との関係を結びなおし、ある流れの中に今の自分を位置づける行為といえる。宙ぶらりんの<果>に<因>を与え、「物語」として着地させることによってひとつの安定=救いを得る。そこに介在するのはおそらくカミサマやイタコと呼ばれる人たちの「語り」であろうと思う。
 <救い>というものが、生と死のぎりぎりの場でしか得られないという本来的・根源的なあり方があの場にあったような気がしてならないのである。

 思えば太宰治も、寺山修司も「かたる」人だ。作品やプロフィールの中に「虚」を織り込み、自らを演出する。現実から眼を背けるわけでなく、「語る自分」と「語られる自分」を常に意識しながら、虚構と現実のなかに<ほんとうのこと>を定着させようとしていたように思う。それは生きてゆくためにどうしても必要な、無意識の<救い>=いま自分がここにいることの確認だったのではないか。『津軽』に「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった」とあるが、『東京八景』の「芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である」と対応させて読むと、その真剣さの色合いが全く違って感じられるのである。

 生きてゆくうえで、どうしようもなくどうにもならないことを、どうにかしようとすること。芸術とは、そういうものではないだろうか。過酷な自然、天地の感覚さえ失うという雪・・・日常と非日常、生と死が極めて近くに隣り合ってある津軽の風土においては、「生きる」ことの中に芸術がある。というより「生きること」そのものが芸術となる、というべきだろうか。

 もうひとつの核となる身体性についても多少触れておきたい。自然・気候条件・文化によって作り上げられた日本人本来の肉体を、その根源的なDNAにまで立ち返り、表現しようとした「舞踏」。末期の老人が布団の中でも踊れる踊り。地面と一体化し、風景と化すというそれは、まさに風土そのものと言っていいだろう。映像では本来の凄みを十分に感じ取れたとは言いがたいが、その後の体験でふと、日本人本来の身体感覚というのはもしかしたらこういうものかな、と思うことがあった。一週間ほど前に粟田神社の剣鉾の練習の見学会があり、ちょっとだけ試しに、と「差し袋」と呼ばれる腰帯をつけてもらい、60キロほどある剣鉾を実際に差してもらったのである。その姿勢が、お山詣りのときに御幣を持った感覚と身体のなかで重なった。腰(臍下丹田?)を中心にして背筋に芯がとおり、自分の身体を通して天と地を垂直につないでいるような感覚。ベテランの人の話では、まっすぐに立ててバランスがとれていれば重さは感じないのだという。その感覚を、まず背骨に覚えさせる。歩くのはそれから(実際は歩きながら鉾を撓らせ、重い鈴を上部金属部分にあてて鳴らしながら進む)、と。私は重さによろめくばかりで倒さずに居るのがやっとだったが、それでも周りの人に支えてもらいながら、眼前に岩木山を見、お山詣りで幟を立てる人の感覚を想像できる一瞬があった。全く同じ体験でなくても、自分の根源にある日本人のカラダを確認することは可能なのかもしれない、と思った次第である。

 生と死を実感として感じることは実際難しいと思う。だが、お山詣りの夜、登山囃子競技会の終わり近くにその場に居た全員が息を止めてお岩木山を見上げたあの瞬間、私という存在がいなくなるような感覚を味わった。あれも一瞬・擬似的ながら<死>の感覚に近いものだったのではないかという気がする。津軽で瞬間瞬間に感じた感覚を、これから自分自身の身体と精神に問いかけながら、改めて「芸術」について考えてゆきたいと思う。