高山を歩きながら<飛騨の匠>のことを考える  阿波野 智恵子(筆名)

【2014年度環境文化論・飛彈】スクーリングレポート

高山を歩きながら<飛騨の匠>のことを考える --- 陶芸コース  阿波野 智恵子(筆名)


 林格男先生の講義のなかで、古川周辺に集中する古代寺院の痕跡の話とともに月ヶ瀬が止利仏師の故郷であるとされる伝説についてお話を伺った。「それが本当かどうかじゃなくて、なぜそういう伝説が生まれたかを考えるべきだ」というようなことをコメントされたかと思う。高山の町を思いつくままにあちこち立ち寄りながら歩いて、率直に感じたことを述べてみたい。

 ● 飛騨国分寺 三重塔から
 まず目に付くのは外方向に突き出している木の小口がすべて白く塗られていることである。基壇の組み物は側面が塗られている。そして高欄というのだろうか、初層の組手が支える横木の部分には、彫りの線の鋭い波の彫刻がある。奈良などで見る塔とはどこか違った印象を受けた。垂直方向の加重と木組みの工夫がせめぎ合う緊張感が奈良の塔のフォルムの美しさだとしたら、この塔はこのさりげない装飾の醸し出す地味な華やぎのようなものが塔全体の印象まで及んでいるように感じられる。文政4年再建という時代のせいだろうか。
 その昔飛騨は庸・調を免除する代わりに匠丁を差し出し、宮や寺院などの建築に従事したという。そのせいか<飛騨の匠>に対して宮大工の西岡常一さんのようなイメージを勝手に抱いていた。西岡さんの伝えられた「木を買わずに山を買え」──木の育つ場所や山の向き・陽あたり等によって一本一本異なる木の強度やクセを適材適所に生かして使えという教えは、山と木に囲まれて古くから木材の扱いに長けていたという飛騨にもいかにもありそうなことだと思っていた。
 が、この塔から受ける印象にふと疑問がわいた。今昔物語集などにある「飛騨の匠」が名人絵師・百済川成と競い合う技はなぜ扉のからくりなのか。建築の名人という設定なら、御堂の強靭さや精巧さ、例えば幸田露伴の「五重塔」のように大風にも倒れなかった、というようなエピソードのほうが効果的ではなかろうか。
 国分寺本堂内には大工の神様として祀られているという藤原宗安の像があった。木で彫った鶴が飛翔しそれに乗って飛び去った姿だといい、この話によって「木鶴」と号されて崇められていたそうだ。江戸時代各地の大工さんたちは聖徳太子を大工の祖として太子講を組織していたが、飛騨だけは匠講といってこの木鶴を信仰していたとのこと。彫った動物が夜に動いたという伝説を多数持つ左甚五郎が飛騨出身という話ともイメージが重なる。
 <飛騨の匠>は建築よりも木工・細工方面にその特色があるのではないか。
 
 ● 日下部家住宅
 明治12年の建築。実在の匠・川尻治助が棟梁である。吹き抜けの梁組の力強い美しさはいうまでもないが、ここでおもしろいものを見つけた。出格子の内側にはめられている障子の上の横木の上に1cm角×幅2cm程度の木のでっぱりがある。家の方に尋ねてみると、障子の上に隠し戸袋のようなものがあって、そこから木製シャッターとも言うべき細身の雨戸板(これも格子の色と同じに塗られている)が縦に降りてくるのだ。でっぱりは一部だけ下げるときのストッパーだったのである。ちなみに隣の部屋は横スライド式の雨戸である。「ミセ」としての部屋の機能を考えてのことと思われるが、合理的でありつつお洒落な感じがする。奥のお手洗いにはモダンなタイルが敷かれており、家の風格を損なわない調和のもとに洋風の意匠をも取り入れていたことがわかる。機能性と装飾を兼ね備えた、これらもひとつの<細工>のかたちといえるのではないだろうか。

 ● 吉島家住宅
 明治40年、棟梁は西田伊三郎。明治8年と38年に火災に遭い、二度目の普請ということである。日下部家の梁組の印象とはまた違って、太い梁と細い束の変化に富んだ組み合わせや、梁から下がった吊束と鴨居・中抜千本格子の瀟洒なデザインは大胆かつ繊細、よくぞこんな設計を思いついたものだと感心する。二階の部屋ごとの流れるような段差は当然一階の天上高に直結するが、それすらも各部屋の機能に即した必然であるかに見える。まさに粋を凝らした普請との印象を受けるが、火災直後に資材を擲っての公共事業的な性格も帯びていたと聞くと、高山のいわゆるだんな衆の側面が見えてくる気もする。
 いちばん印象的だったのは、檜材の大黒柱に両側から差し込んである大きな梁である。受付の方の話では、一本の太い木を真ん中から切り、元と末を入れ替えてねじれを矯正しつつ強度を高めているのだそうだ。木の特質を見極めた<適材適所>はここにあった!と手を打ちたい気分である。大黒柱への組みこみのズレ具合はデザインとしても絶妙である。

 考えてみれば、白川郷の合掌造りも、高山陣屋などに見られる榑葺も、個々の木の性質とその使用法を熟知していなければ出来ない技である。他方、高山祭の屋台を見れば、木工・彫刻・漆・金具飾りなどの細工装飾の素晴しさはいうまでもないが、釘を一本も使わずに車輪の構造からして一台ずつ異なる台を作り上げた創造力は、長い間の建築的技術の蓄積と無関係ではないと思われる。
 合理的機能的な実用性と、調和の取れた装飾性。京都とのつながりを濃厚に感じさせる金森家の支配ののちに天領となった高山の歴史的背景はもちろん重要であるが、今回のスクーリングで各先生方の講義をきいて感じるのは、厳しい自然環境のなかでたくましく生活してきた飛騨の人々の人間性がその根底にあるのではないかということである。
 林先生のお話や「土座物語」で語られるエピソードからは、傍目には厳しい生活を楽しむ智恵が随所に感じられる。稗や米の食べ方、草餅ほかいろいろのものを混ぜ込んだ餅のあれこれを、まずかったと言いながら当たり前以上のこととして笑って受け入れる。まずい食べ方も、一見差別的に見える村落内での慣習も、それを常態化することによって環境に順応することができる、弱者に対する優しさが含まれている合理的なシステムともいえる。だからこそ年に一度あるかないかの市餅の「ほっぺたがおちるほどまかった」喜びが輝くのだと思う。常に自然の恵みに感謝し、時たまの楽しみをより大きく享受するすべを自然に体得している。
 <飛騨の匠>は時代によって様々な貌を持ち、その多くは超人的な伝説に彩られている。長きに亘り飛騨の人々の誇りのひとつであり続けたのは、そのイメージに含まれる実生活に根ざした合理性と控えめな装飾性、加えて手間を惜しまず、仕事をきちんとやりとげる粘り強さがこうした飛騨の人々の生き方と重なるからではないだろうか。「下下の國」と見下されても、つつましい生活には自分たちの納得する合理性があり、折々に喜び・楽しむことをちゃんと知っているという誇りが、飛騨の文化の根底には何時も流れているのではないか。
 飛騨はやっぱり奥が深い。今回は<モノ>を見て<場所>に短時間立つのが精一杯のスケジュールだったが、季節ごとに訪れて<ひと>の話をもっともっと聞いてみたいと感じさせる地である。