昭和人生論 --- 戦争と民俗 ---

【通学部 2009年度 民俗学レポート】

昭和人生論 – 戦争と民俗 - (情報デザイン学科・コミュニケーションデザインコース 谷川真唯)






 これは、怒濤の昭和を生き抜いて来た一人の男の話である。私は故郷である兵庫県丹波市(旧氷上郡)の古老を訪ねた。
「小学校の頃の話というと戦時中の話しか残ってへんわ。文芸本なんか今になったらみんな忘れとるわ。生まれたんは昭和2年やもん。今、葛野村とかいうけど・・・アンタ上新庄か、いや、そうそう下新庄やったな。畑なんか誰々のんとか、番地がついとる。それによって人口とか誰の所有ゆうんが分かるようになっとる。俺も田んぼは持っとる。作られへんから人に貸しとるけどな、一番多い時で一町ほど作っとった。10反や。頭ええ人は土地をみんな買いあげて小作さして米を納めさせて、地元の有力者になっていった。ほんで百姓の明治の人なんか小学校4年生くらいしかいってへん。
 金がなくて勉強してへんさかい、計算が出来ひんゆうこっちゃ。名字ない人もおったくらいや。一家をちゃんと持たへんださかいに。昔やったら地主の家に使えにいって、女中にいって、下働きして暮らしとったもんや。昔はな。その人らぁが書いてや字は勉強してへんだら読めへんわけや。へんだ仮名ゆうてな。ぼったくりしたりな、知恵のない人は人を騙せへんねん。口が上手うて騙す人も計算が早うて騙す人も悪賢い人がおった。地主らぁなっちゃったっていう時代は筆書きばっかりや。てーっと早う書かれて騙されたり・・・。」




 昭和初期の町民の話をした後、戦争の影が見え始めた。
「小学校4年卒業してからは徴用の代わりに軍事工場いったり・・・もう2年間、青年学校いうのもあったけどお金がなかったからいってへん。いかへんでも良かったけど。その2年間で百姓でも蚕とか色んな勉強して駅でも警察でも勤められよったんや。そんな勉強してきたさかい、そんな偉い人なかったけど。けど元々賢い人もおったんや。今はボタンおしたら機械が計算してくれるけどワシらの時代はソロバンで・・・計算が出来ない人もおった。ほんで頭良い人は地主になって、今でも一緒やけどの、頭良いひとは出世する。
 今の中国も凄いけど日本かて戦争が終わって格差がなくなったくらいや。凄い格差があってん。俺は戦争に負けると思っとったよ。こんな小さい国が戦争で潰し合いしたって破壊されたら何にも出来ひんやん。
 負けんようにしようとおもって日本かて原子爆弾考えたわけや。けど陸軍の偉い人らはそんな爆弾出来ひんゆうた、そんな研究してもお金出せへんから。
 だけど日本みたいな小さい国でもアメリカみたいなでかい国と対等に話せると思っとった。なんでそんなん思うかいうたらの、人間たら不思議なもんで、下の人は上の人に命令出来ひんやん。頭の人が計算とかして、こうやて言うたら、合うてますなあちゅうもんやん。学力の差がある。差がついた賢いひとがそう言う。」

 ここで「日本の軍国主義」(ハロルド・スヌー著 辻野 功訳)を参考に当時の「日本の軍国主義」を考えてみると、日本の軍国主義者のほとんどは敗北を認識していなかったようである。「どうして帝国日本の軍隊が堕落したアメリカ人に敗れることがあろうか」という考えや「日本敗北」のような考えを認めれば愛国的過激主義者の手による暗殺を招くであろう可能性があった。しかし和平交渉の準備はいくつかのグループによってすすめられていた。日本人にとって重要な面子を失わずに無条件降伏問題を排除出来るのならそうしたのだ。しかし連合国は1945年7月26日に即時無条件降伏の為の要求を出した。無論、日本はそのような条件を受入れようとはしなかった。
この時、日本がすでに原子爆弾が現実のものとなった事を知っていれば歴史は変わっていただろう。

 お爺さんの横でお婆さんが思い出したように口を開いた。
「私も修身を習うとった。天皇陛下を敬ういうもんや。」
うん、とお爺さんも頷いた。
天皇いうたら偉い人や。偉い人のいうことを聞くもんやって・・・年貢でもこんだけ納めえ持ってこいいうてな。」
「集めな国が成り立たんから。」
「人間の物の考え方にそんだけ差がある。昔の岩波文庫に書いたる社会学は何故人間がこう覚えて社会がなって来たというのが分かって来るように書いてあるだけで・・・今は全然違う。裁判もあるし男女平等で同じ権利いうこっちゃ。
親より子供の方が勉強出来る。親が勉強してへんだら賢い人に着いていけへんだっちゅうこっちゃ。だから賢い人がいうてや理論が分からへんだっちゅうこっちゃ。」
「昔は選択肢もなかった。あんま偉い人ばっかりこしらえたら困るっちゅうこっちゃ。一番給料安いんは汗水たらして働いた人や。小学校卒業して軍事工場行ってからは飛行機作っとった。エンジンのとこいきたかったけど試験があんねん。(結局)旋盤のほうに回された。
 小学校卒業して田んぼや畑しか見とらへんやん。見たらパイプがヴァーてあるやん。ちょっと言うてもろたぐらいで分からへん。一万分の一ミリで研磨せなアカンとかどないして測んねん。」
 教えて貰えたんですか。と聞くとうん、まぁと曖昧な答えが返ってきた。
「機械があるもん。中学出・大学出が上におっての。進学する人が少ないから少々頭悪ぅてもお金があったら行けたんやろけど。」
「お爺ちゃんは戦争に行っても1年くらいで終わって帰ってきたんや。」
「誰も殺さへんだぞ。あと長男やから陸軍にしてくれ言うた。海軍やったら舟沈んだらもうアカンやろ。陸軍の方が帰ってこれるかな思ぅて。」

 日本が戦争をしていた時代でも、徴兵検査に合格することは必ずしも喜び受け取った日本人ばかりではない。事例を挙げると実際に日露戦争開戦後に「徴兵逃れ祈願」らしきものが起こっている。「ムラの若者・くにの若者 − 民俗と国民統合」(岩田重則著 未来社)では表向きは「戦勝祈願と自発的軍事後援活動」となっているのだが、この白色の単物一枚を身につけただけの若者が集団となって夜に神社仏閣に参詣するという熱狂的戦勝祈願は単純な戦争後援支援性格をもつものではなく、若者の間に鬱憤していた不満の爆発でもあったことを指摘している。また日露開戦十日後には龍爪山に徴兵逃れを願い「御符を貰いに蝟集するもの毎日万人以上にも及び、龍爪山は札切れの有様」という状態になったという。この龍爪山は平時には徴兵除け、戦時には弾丸除けの神として信仰を集めていた。「徴兵・戦争と民衆」(喜多村理子 吉川弘文館)の著者は日露戦争のときには神社や寺院に徴兵逃れの祈願者が続々と訪れたという伝承を聞き、その時代までの社会現象かと判断していたが、古老達に詳しく聞き取りをしてみると日中戦争がはじまるまでひそかに行われていたという。
「戦争終わって焼け野原になってやっと、なんでこんな戦争したんやって気づいたんや。日本は勝つ、絶対勝つて偉い人はいうたけど。大阪はもう潰れてしもうとるねんぞ。今度は特攻隊で行けいうて・・・行け言うた人は死んでへんねん。部落差別もそうや。勝手に殿様が決めた土地やあんなん。でも昔はそれが当たり前やった。おかしいって考えよったら潰されよった。」




終戦して仕事がのうなってから百姓して玉子屋はじめた。玉子すんのも競争せんなんやろ。ちゃんと綺麗にせなアカンけどそれにはお金がかかる。ブランドや言われたら個人でしとる人はついてけへんやん。大勢人集めたら説明すんのにまたお金がいる。個人でしとったらそんなにお金も貸してもらえへん。大きいとこやったら株で人の金で商売出来るけどな。
 けど玉子は高かった。組合ゆうのが出来とって氷上郡玉子屋が350人おった。鶏はどの家でも10羽ずつ縁の下に買うとった。俺は9人兄弟やった。親も兄弟も養わなアカンかって、親父は25くらいん時に別れて(亡くなって)お袋と兄弟8人!長男やから養わなアカン銀行にいって独りもんやいうだけでも貸してもらえへん。信用してもらえへん。けど家族養わなアカンかったし農協の人が近所の人やったんもあって貸してくれた。結婚は31でしたからちょっと遅かった。けど働いてもおっつかへんだ。地主んとこに6割年貢持っていかなアカン。米は市場に行ってなんぼなんぼて売ったりもした。闇(闇市)に行ったこともある。そうせな食べていけへんだ。
そんで兄弟8人も働いたけど女の子はそんなに給料も貰えへんだ。たまに工場の社長と飲んだりした。もうホンマにうち来いやて言うてくれたけど、家族養わなアカンし俺が倒れたらアカンからいうて行かなかった。案の定すぐに潰れて行かんで良かったんやけど。
ほんでもこのへんで車に乗ったのは一番早かった。そん時は三輪自動車しかなかった。今みたいにトラック買えたんはもっと後やった。」
 隣で相づちを打っていたお婆さんが静かに笑った。 
「そうやってこの人は玉子屋で50年暮らしてきちゃったんや。」
本文(3557字)


参考文献

「日本の軍国主義」ハロルド・スヌー著 辻野 功訳 三一書房
「徴兵・戦争と民衆」喜多村理子著 吉川弘文館
「ムラの若者・くにの若者 − 民俗と国民統合」岩田重則著 未来社