詩と音楽への案内 第二課題レポート 「和歌」 土屋良子

【2011年度 詩と音楽への案内】

和歌  歴史遺産コース 土屋良子

 第二課題 『中世の文学』


(一) 和歌は歌うもの
 和歌といえば私にとっては小学校での百人一首の暗記に始まり、中学校でのあの独特の抑揚をつけたよみ練習に終わった。ほとんどの和歌はよく意味も解らず、面白いものでもなかったが、

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮

この一首には心惹かれるものがあった。ところがこれは例のよみで詠むよりも、普段の話し言葉のように平坦に詠む、もしくは黙読や、心の中で詠む方が味わい深く思える。もともと歌は楽器を伴って長く詠ずる、まさに「うたう」という意味で、和歌はその一種であり、後に「思っていること、胸の裡にあることを言葉に発表したものを指す」詩の意味にもあてはめるようになったものであるという。
 いはば歌は音楽、詩は文学と意味がはっきり分かれていたのであった。
それにしても和歌はたった31文字である。私達が普段聞いている歌謡曲でも、ロックでも、歌詞があるものはもっと長い。昔の歌がどんなものであったのか、よくわからないのである。うたとはなんだろうか。

(二) 言葉と音の関係
 私達は普段様々なことを喋り、歌っている。
 まずは言葉を音と共に表すとどうなるのかを経験に即して考えてみたい。
本を読んでいて気づくと寝ていた…この経験は誰にでもあるだろう。ページの文字がただの形に、意味を持つものに見えなくなり、いくら読んでも単語と単語が繋がり、頭に定着することがなく、流れのままにどこかへ消えて行ってしまう。また悲しいことに、一度読んだくらいでは一週間もすれば全ては忘却の彼方である。二度読む、散歩しながら思い返す、ノートとペンを傍らにおいて進める、様々な方法はあるが、記憶するためにはそのために何らかの新たな作業を必要とするのである。ところが、鼻歌を歌っていると、ふと口をついて歌詞が出てくる。そのとき歌詞の意味は全く頭の中になく、ただメロディーにのって出てくるのだ。音読しながら本を読むとたいていその内容をよく覚えていない。音にのった言葉は意味を伴わずただ言葉として記憶に定着している。
 また子供のころ、母に経文を覚えさせられていたが、覚えようとすればするほど自分でリズムを取り覚えていることに気が付いた。言葉は音楽にのせると覚えやすいのだ。自らが発する場合言葉と音はこのような役割を持つ。
 言葉と音の重大な側面は「聞く」ことである。私達は作業をしながら音楽を聞き、ラジオを聞いたりしている。そして結構それを覚えていて、笑ったり泣いたりしている。自分のカラオケで泣く人はあまりいない。みな、人の歌を聞いて泣くのである。歌が上手い下手ではなく、聞く事でその言葉を理解することができるからなのである。さらに言えば、朗読に代表されるように聞く際には音楽がなくとも言葉は聞く者にスッと入ってくる。逆に音楽があれば後に自ら思いだし、歌うことが容易になり、何度も噛みしめて味わうことができるのである。ともあれ、聞くことは内容把握、理解の役割を担う。

(三) 人が言葉を発する…かたり
 「うたう」は人が言葉を発する行為の表現方法の一つだが、坂部恵氏はそれらを
 1 「はなす」
 2 「かたる」
 3 「うたう」「いのる」「となえる」
 4 「つげる」「のる」
の四段階に分けている。「はなす」とは日常私達が使う言葉で、「かたり」とは語部という言葉があるように、連綿と伝えられ、ある型が作られているようなものに思われる。私達が昔話を伝えようと思う場合、まずはその話を覚えようとするだろう。すると覚える為には音やリズムが必要になる。たいていの昔話には独特の抑揚やリズムがついていることが多い。また長唄義太夫地歌など伝統音楽がほとんど物語を語っていること、遡って謡曲、平曲、(広義の)声明に至ること、その声明とは経典や高僧の事跡を詠んでいることはそれらが、まず語りの内容を覚えなくてはならないということ、意味から離れ、言葉を追求する過程でそこから派生した声の調子や間などに重点をおくことで語ることそのものが芸術になるように思えるのである。現代の歌詞はほとんど一人の作者によって作られている。それはあくまで思っていること、胸の内を表す詩で、かたりに連なる歌ではなさそうだ。

(四) 人が言葉を発する…うたう
 先ほどの分類によれば「うたう」と「のる」はどちらも神との関係抜きでは説明しえない行為のようである。「のる」は神がこちらへ向ける、上から下への方向性を持つ言葉であり、知る者から知らぬ者へという関係性を持っている。「うたう」はこちらから神へ、下から上への方向性を持つ。「かたり」との大きな違いは、それが人と人の間か神と人の間かによるもので、神がかり状態や連歌、問答歌のようにお互いが近づくこともあるが、あくまで別物であった。うたいものとかたりものという区別があるが、ここで述べる「かたり」と「うたう」の区別からいえば、それらはどちらも「かたり」の範疇の芸であるように思う。
 「かたり」の対象は物語であって、物語は語り継がれてきた歴史物語であった。うたとかたりの大きな違いはここである。自然を讃えても、気持ちを詠んでも、神を讃えても全て歌である。仏を讃える(狭義の)声明はその意味で「うたう」ものであるが、「かたり」のものより非常に音をのばす。雅楽も一音一音が長い。こんなに長くては曲を聞いて意味をつかむのは困難である。始めから知っているか、そもそも歌い手である私達が意味を知らなくてもよい言葉なのではないだろうか。つまり、声をだし、歌うべき言葉をうたっておればよいのである。このことは、声を出すということについても考えさせられる。
 どこの運動部でもたいていランニング中は声出ししながら、走っている。しかもちょっとした歌であることも多い。田植え唄、馬追い歌などの労働歌と同じで、体を動かす時声を出しているとスムーズに動く事から来ているのだろう。歌詞は動作に関連し、歌いやすいものである。では歌っている時の気分はどうか。例えば合唱では、歌いながら音に呑まれ、自分を人体の形に保っている境界線が溶けているような、周りと一体化したような忘我の境地になれるのである。そこまではなくとも、歌った後はスッと力が抜けるような心地よい疲れがある。これはよく聞く感覚である。大抵の人がこの感覚を味わったことがあるのである。だからこそ「うたう」ことは神への作法として用いられていたのだろう。重要なのは声を出す、うたうことであり、内容把握のための言葉ではなかったのである。

(五) 言葉の効能と和歌の魅力
 和歌の源であるという「うたう」ことについてみてきたが、そのうえで

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮

をよみ返すと、やはり眼で詠むために作られているものであると実感できる。文学の一番の特徴は読み、想像させることにあり、和歌はその想像を促す作り方をしている。「既に音楽と袖を分って文字にのり換えた歌、聴覚から視覚へと転居した歌は、民族の声を大まかに伝えるのではなく、民族の中のある個人の心をつたえるようになる。」という一文にあるように、和歌はやはり文学で、作者やその時代背景を重ね合わせ楽しむことができるものになるのである。当然和歌も遊びの中で歌われたであろうが、文字として残る文学である和歌は貴紳の間で繰り返し詠まれ、受け止められてきた。そういう積み重ねの方が和歌の魅力であると言えるのである。
(3021文字)


参考文献
風巻景次郎 『中世の文学伝統』岩波書店1985年
坂部恵 『かたり―物語の文法』ちくま学芸文庫 2008年
文化ライブラリー http://www2.ntj.jac.go.jp/