≪宮沢賢治の雲≫
【2011年度「環境文化論1~4(花巻)」スクーリング レポート】
≪宮沢賢治の雲≫ 芸術学コース 須田雅子
羅須地人協会跡の柱にあった、「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」に、とても爽やかな印象を持った。『農民芸術概論綱要』からの引用だ。『心象スケッチ 春と修羅』にも「雲」が頻繁に出てくるが、それらは爽やかさとは程遠い。賢治作品で「雲」は何を意味するのだろうか。
2.『心象スケッチ 春と修羅』(初版本)の雲
同書には、序を含め70の詩があり、そのうち30の詩に「雲」が出てくる。多いもので、長篇詩『小岩井農場』に16回、『東岩手火山』に10回、『風の偏倚』に9回、そのほかの詩にもかなり頻繁に出てくる。
気になるのは雲の表現のされ方である。「白い」「黒い」「鼠いろ」などは天候により普通に用いられる表現だろう。鉱物好きだった賢治は、雲を「玉髄」「蛋白石」「白雲母」「玻璃末」などに喩えたりもした。しかし、「ぎらぎら」「ぐらぐら」「陰惨」「暗い金属」「氷片」となってくると、話は別である。
(1)穏やかな雲
『東岩手火山』の雲は、「柔らかさう」「柔らかな」「蛋白石の」と表現され、賢治の穏やかな幸福感が感じられる。
(2)暗い雲
妹、トシ子の死が詠われる詩では、雲は暗く重い。『永訣の朝』の雲は「陰惨」だ。『噴火湾(ノクターン)』では、「暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる そのまつくらな雲のなかに とし子がかくされてゐるかもしれない」とする。陰気な雲は、罪悪感の投影か。
(3)性的な雲
岡澤先生は、歩行詩『小岩井農場』が、賢治が保坂嘉内との別れから立ち直るために書かれたものと考え、『ダルゲ』を引用し、「保坂の亡霊が「西ぞらの縮れ雲」に隠喩して現れようとも、それを無視して行こうと表明した」(1)と述べている。賢治が『雲とはんのき』でも「雲は羊毛とちぢれ」、「北ぞらのちぢれ羊から おれの崇敬は照り返され」と、『ダルゲ』と同じ詩句を用いていることを考えると、縮れ雲や羊は保坂に関わるもののようだ。
『小岩井農場』パート9で、あれだけ必死に、恋愛や性慾を否定しているのは、自分では認めたくなくても、(おそらくは保坂への)恋愛感情と性慾が自分の中に渦をまいていたからだろう。
『雲の信号』では、「雲の信号は もう青白い春の 禁欲のそら高く掲げられてゐた」。『風の偏倚』では、雲は「錯綜」し、「意識のやうに移って行くちぎれた淡白彩の雲」であり、「きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲」となる。
「青い抱擁衝動や 明るい雨の中のみたされない唇が きれいにそらに溶けてゆく」で始まる『第四梯形』で、雲は「縮れて」「ぎらぎら光り」、「やまなしの匂い」を湛える。これらにはどうも性的なものが漂っているように感じられる。
押野武志は、性欲や性愛を煩悩とみなし、克服しようとする賢治が、「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ、雲にだって女性はゐるよ」と藤原嘉藤治に話したというエピソードを紹介している(2)。
3.おわりに
菅原千恵子は、晩年の賢治について、「黒雲という表現は、これまで彼の詩の随所にみられるものであるが、輝く雲が、法華経に陶冶された世界だとすれば、黒雲は信仰に対立するものであり信仰を邪魔するものである」(3)と述べる。賢治が嘉内と共に青春の日々を過ごしたとき、すでに「今日こそ飛んで あの雲を踏め」(4)と記していることから、賢治は生涯を通じて、内面を雲に投影していたといえる。
晩年に賢治は禁欲のために病気になったということを自ら認めていたらしい。あまりにも純粋で、ストイックで不器用な生涯だ。晩年の詩「移化する雲」で、「ふたりだまって座ったり うすい緑茶をのんだりする どうしてさういうやさしいことを 卑しむこともなかったのだ」と書いている(5)。ここではタイトルに雲が用いられる。賢治が自分を許すことができ、そういう普通のことができていたら、普遍の価値を持つ多くの作品も生まれなかっただろう。私は賢治を反面教師とし、ストイックにならず、のんびりと賢治の世界を味わってみたいと思う。
同書には、序を含め70の詩があり、そのうち30の詩に「雲」が出てくる。多いもので、長篇詩『小岩井農場』に16回、『東岩手火山』に10回、『風の偏倚』に9回、そのほかの詩にもかなり頻繁に出てくる。
気になるのは雲の表現のされ方である。「白い」「黒い」「鼠いろ」などは天候により普通に用いられる表現だろう。鉱物好きだった賢治は、雲を「玉髄」「蛋白石」「白雲母」「玻璃末」などに喩えたりもした。しかし、「ぎらぎら」「ぐらぐら」「陰惨」「暗い金属」「氷片」となってくると、話は別である。
(1)穏やかな雲
『東岩手火山』の雲は、「柔らかさう」「柔らかな」「蛋白石の」と表現され、賢治の穏やかな幸福感が感じられる。
(2)暗い雲
妹、トシ子の死が詠われる詩では、雲は暗く重い。『永訣の朝』の雲は「陰惨」だ。『噴火湾(ノクターン)』では、「暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる そのまつくらな雲のなかに とし子がかくされてゐるかもしれない」とする。陰気な雲は、罪悪感の投影か。
(3)性的な雲
岡澤先生は、歩行詩『小岩井農場』が、賢治が保坂嘉内との別れから立ち直るために書かれたものと考え、『ダルゲ』を引用し、「保坂の亡霊が「西ぞらの縮れ雲」に隠喩して現れようとも、それを無視して行こうと表明した」(1)と述べている。賢治が『雲とはんのき』でも「雲は羊毛とちぢれ」、「北ぞらのちぢれ羊から おれの崇敬は照り返され」と、『ダルゲ』と同じ詩句を用いていることを考えると、縮れ雲や羊は保坂に関わるもののようだ。
『小岩井農場』パート9で、あれだけ必死に、恋愛や性慾を否定しているのは、自分では認めたくなくても、(おそらくは保坂への)恋愛感情と性慾が自分の中に渦をまいていたからだろう。
『雲の信号』では、「雲の信号は もう青白い春の 禁欲のそら高く掲げられてゐた」。『風の偏倚』では、雲は「錯綜」し、「意識のやうに移って行くちぎれた淡白彩の雲」であり、「きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲」となる。
「青い抱擁衝動や 明るい雨の中のみたされない唇が きれいにそらに溶けてゆく」で始まる『第四梯形』で、雲は「縮れて」「ぎらぎら光り」、「やまなしの匂い」を湛える。これらにはどうも性的なものが漂っているように感じられる。
押野武志は、性欲や性愛を煩悩とみなし、克服しようとする賢治が、「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ、雲にだって女性はゐるよ」と藤原嘉藤治に話したというエピソードを紹介している(2)。
3.おわりに
菅原千恵子は、晩年の賢治について、「黒雲という表現は、これまで彼の詩の随所にみられるものであるが、輝く雲が、法華経に陶冶された世界だとすれば、黒雲は信仰に対立するものであり信仰を邪魔するものである」(3)と述べる。賢治が嘉内と共に青春の日々を過ごしたとき、すでに「今日こそ飛んで あの雲を踏め」(4)と記していることから、賢治は生涯を通じて、内面を雲に投影していたといえる。
晩年に賢治は禁欲のために病気になったということを自ら認めていたらしい。あまりにも純粋で、ストイックで不器用な生涯だ。晩年の詩「移化する雲」で、「ふたりだまって座ったり うすい緑茶をのんだりする どうしてさういうやさしいことを 卑しむこともなかったのだ」と書いている(5)。ここではタイトルに雲が用いられる。賢治が自分を許すことができ、そういう普通のことができていたら、普遍の価値を持つ多くの作品も生まれなかっただろう。私は賢治を反面教師とし、ストイックにならず、のんびりと賢治の世界を味わってみたいと思う。
(総文字数:1645)
<参考文献>
「精選 名著復刻全集 近代文学館」宮澤賢治著『心象スケッチ 春と修羅』関根書店版 日本近代文学館 1974年発行 第6刷
岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』 未知谷 2005年初版
押野武志『童貞としての宮沢賢治』ちくま新書2003年第一刷
菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって』角川文庫 2010年 3版
「精選 名著復刻全集 近代文学館」宮澤賢治著『心象スケッチ 春と修羅』関根書店版 日本近代文学館 1974年発行 第6刷
岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』 未知谷 2005年初版
押野武志『童貞としての宮沢賢治』ちくま新書2003年第一刷
菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友” 保坂嘉内をめぐって』角川文庫 2010年 3版