連句半歌仙 春の風の巻 2011年5月24日~7月19日

【2011年度「ことばと表現」ID】

連句半歌仙 春の風の巻 2011年5月24日~7月19日




発句  春の風吹けば吹くほど桜散る       K
脇    はらりはらりぽろりぽろり       雪
    伸びすぎた毛先が少しうるさくて     林
     親の小言も右から左          西山
(月) お月見に姉の譲りの晴着きて       つね
折端   座る縁側零れる笑顔          林
折立  宵山の人の多さに驚いて         榊
(恋)   離れるまいと握る君の手        榊
(恋) このあした旅立つ君とホームにて     林
(恋)  何万歩より距離ある一歩        藤
    しあわせは3歩すすんで2歩さがる    奥田
     時はとまらずながれる景色       今井
    飛ぶ鳥の涙の色も夕焼けて        つね
     ほほをなでゆく涼風やさし       今井
    さらさらと川床の下魚(さかな)やいかに 雪
     賑わいの声水面を打つ         安達
(花) お花見はつぶあんよりもこしあんが好き  植田
挙句   笑顔を咲かす〆の一杯         淳平


 

詩と音楽への案内  第一課題 山田彩加

【2011年度 詩と音楽への案内】

サウンド・エデュケーション』 芸術学コース 山田彩加


1:はじめに
 『サウンド・エデュケーション』このような教育があったことをこの本で初めて知った。教育とは受けるものであって、その中で受けてきた音楽の授業とはこのようなものではなかったから、素直に楽しそうだと感じた。更に読み進めるにあたり、私が今回特に興味を持ったのは、64章(p92)のアリストテレスの問いについて書かれた部分であった。

 『環境を知るために自分たちの感覚を実際につかうという習慣こそが古代ギリシャの人々の思考方法の特徴であり、それがまさにこの課題集で私たちがテーマとしていることなのだ』

この言葉を繰り返し考える中で、音楽というものがどのように私たちに芸術として問いかけてくれるものなのかを考え、更にこれからの時代、何が必要であるのかを考えた経緯を以下に書き記したいと思う。また、今回被災した日本において通じるポイントもあった為、この課題を通し今考えることについても併せて考えてみた結果である。

2:耳を働かせる
 現代を生きる私たちはどんな風に耳を働かせているのだろうか。この課題集でいくつか実践してみることで、分かったことは耳を働かせるということは単に“聞く”ことだけではないということであった。音楽を聞いたり、人の話を聞いたりするだけでは耳を働かせていることにはならないのである。気がつけば、起きている間中私たちの周囲には音で溢れている。しかし、それは人工的な音であることが多く、心が静まらないような音ばかりに耳を使っている。東京に住んでいれば、なおの事である。それは果たして、耳を働かせていることになるのだろうか?耳を使って、より良く生きることは可能なのではないだろ
うか?そういった疑問が私の中に生まれたのである。仕事柄、良く舞踏や身体芸術に触れる時、私たち観客はダンサーと共に、同じリズムを体験することが出来る。その時にこそ耳を働かせ、ダンサーの意図する伝えたいことを理解することが出来るのではないだろうか。単に美しいとか綺麗であるとか、そのような抽象的なことではなく、私たちが苦悩を共にした時こそ初めて理解が出来るのである。耳を働かせるということは、自然や事柄に対して、理解をしようという働きの一つであり、それこそが意味を為しているのだと思う。

3:現代の音楽について
 私たちは幸福にも、物質的に恵まれた環境に存在しこうして好きな勉強に日々励み、命の危険を常に感じるような生活環境には居ない。しかし、一方で大切なものを見過ごして生活をしているような空虚感も同居している。自分たちのいる環境をどれだけ理解しているのだろうか。また、そのための努力をどれだけ行っているのだろうか。
 現代の“音楽”といわれるものの多くは商業的意味を持っている。誰の何が何枚売れたとか、コンサートには何人集まったかとかそのようなニュースは日々目にすることが出来る。しかし、本来音楽というものは商業のために行われていたものではないということを忘れてしまっているのではないだろうか。その為に何故自分が存在しているのかを見失いがちな世の中になってきていると感じている。現代の音楽全てを否定するつもりではないが、ただ単に数字的な音楽には興味を持つことが出来ないのはそのせいであると思う。
 歴史をたどれば、音楽にも必ずルーツがありその時代に生まれた理由がある。物理的に飛躍的な発展を遂げた現代ではあるが、本当に良いと感じる、身体が喜ぶような音楽や音に囲まれた生活をしているのだろうか?

4:音楽がもたらす美しい環境
 千住博先生にニューヨークでお会いした時に、美しい音楽が何故美しいのかを話して下さったことがあった。バイオリンやピアノにフルート、それぞれが全く違う音を出す楽器なのに、なぜ紡ぎ出すハーモニーが美しいのか。それはお互い同士が音を聞けば、それは美しい音楽になるからである。それぞれの楽器が好き勝手な音を出していては、美しいハーモニーは生まれない。そう教えて下さったことがあるのだ、ここには大切なヒントが隠されているように思う。何故なら、私たち人間にも同じことが言えると思うからである。自分を理解してもらいたいと思うばかりに、相手の言うことを理解するに至らないことが多い世の中になってきているのではないだろうか。肌の色や生まれた国、信じているものや目に出来るものばかりを信じて相手の言うことに耳を傾けなければ美しい環境など、生まれないと思う。相手の存在の中にこそ自分自身が存在するのであり、そうした調和の中にこそ自身の存在意義があるのだと思う。
 オーケストラにも限らず、自然の中に身を置く事も良いかもしれない。静かな風の音、遠くで鳴く鳥のさえずり、美しい音楽は自然の中にこそあることに気付きながら見過ごしてはいないだろうか。自然には絶妙なバランスで音楽が存在し、私たちはその環境を壊すことではなく、共存していくことを考えなければならない時代にきている。
 本当に美しい環境は、相手の声を聞く耳を持つことで初めて生まれるのである。否定や戦争では何も解決にならない。私たち人間も美しいハーモニーを奏でる力を持っているはずだ。ほんの数100年前まではそうして生きてきたはずだと思うからである。
 その為にアクセサリーが生まれ、舞踏が生まれ、音楽が生まれ日々を繋いできたのだ。いつのまにか、地球が人間のもののように思っているがそれは大きな間違いであると思う。
 
5:おわりに
 私たちの周りには常に音楽や音が存在している。それは、決して良いと感じるものばかりではないのが現実である。しかしそれは、自分たちの耳を聞く心を変化させれば環境は変わるのではないだろうか?外からのデザインばかりではなく、音楽を使用した内側からのデザインを考えることで私たちの環境はより美しく変化すると思う。本来音楽は祈りを捧げるためであったり、何かを知らせるものであったり、乗り越えるためのものであったり、その意味は様々であったにしても“生きる”ということにもっと密着していたのではないだろうか。その共通点は人間の感覚を最大限に使用したものであった。現代の私たちはその素晴らしい機能を失いつつある。そのために、各地で戦争や奪い合いがこうしている今でも世界中のど
こかで起こり続けている。こんな地球にしたくて、神様は地球や人間を作ったのだとは思えない。今こそ感覚を研ぎすまし、自分たちの今いる環境に耳を傾けて美しい環境を繋いでいくことに全力を注ぐべき時代に差し掛かっているのではないだろうか。
 音楽が私たちにもたらす力は万国共通で美しい環境を創り出すことが出来るかもしれない。それはこの書籍を通読し私が素直に思った感想であり、最初に挙げた言葉を理解するに努めた経緯の中で今のところの理解である。(2844文字)
 


参考文献: R・マリー・シェーファー著『サウンド・エデュケーション』春秋社
    1992年4月20日 第1刷発行
    1994年6月20日 第2刷発行 

 

音楽の根源にあるもの

【2011年度 詩と音楽への案内】

「音楽の根源にあるもの」 芸術学コース 山田彩加


1、はじめに
 私が、参考文献を通読し、強く関心を抱いた一節は“まえがき”冒頭に書かれた以下の一節である(1)。

 「音楽について語ることは、一般に楽しいが、時として苦痛である」

 著者にとって、一体音楽について語るどの部分が一体苦痛なのだろうか? 私自身にとって、音楽は日常であり楽しむこと以外を知らない無知さ故、この一節に強く関心を抱いた訳である。音楽とは、人にとってどのようなものなのだろうか?それは苦痛を伴うものなのだろうか?苦痛が故に楽しいものなのだろうか? 無くてはならないものなのだろうか?
 様々な疑問を持ちながら、私はこの一節を日々心で繰り返し、考えた経過をここに記したいと思う。
 一番問題にしたい点は、“音楽は果たして楽しいものなのだろうか?”という私の素朴な疑問である。

2、私にとっての音楽
 まず、始めに私自身が今迄音楽についてどう感じていたのかを考察してみようと思う。
 もの心付いた時から、家にはテレビやコンポというオーディオ機器があり、カラオケがあり、家族や友人と音楽を共有する環境は沢山あった。しかし、幼き頃に母のススメで習ったピアノは決してものにした訳でもないので、どちらかと言えば与えられてきたものだった。それが、思春期になると環境の変化や情報を自ら得られる機会に恵まれ、好きな歌手のCDを買うようになり“音楽”という共通点で友人と繋がる機会も持てた。その時の私にとって、こころの奥から楽しむものというよりも、ひとつのツールのようなものだった気がする。
 それが、明らかに覆された貴重な経験がある。それは5年程前にチケットを頂いたことがきっかけでたまたま行った“タップダンス”の公演だった。“タップダンス”とは、専用シューズ(靴底に金属がついているもの)を履いて、カタカタと音を出すものである。日本で有名と言えば、北野武監督の座頭市が挙げられるだろう。色々な音楽があるのは知っていたが、こんなに魂を感じるものがあったのかと帰り道は興奮が収まらなかった。
 身体ひとつと、シューズで創り出す音楽は力強く、光輝いていた。更にそこには果てない未来が見えた気さえしたのだ。これが、音楽になり得るものならば、世界だって変えることが出来るのではないか、と本気でそう思った。少なくとも、その場に居た人たちの感動はあったはずだ。それがきっかけで“タップダンス”を趣味ではあるが、始めるきっかけにもなった。それからというもの、“タップダンス”を通じて音楽や音、それから魂という見えないものについて非常に興味と好奇心を持つことになった。

3、音楽のちから
 私たち人間にも、生きるもの全てには魂があるのではないだろうか。それが、見えるかどうかは別として、時々それを感じたことは誰にでもあるのではないだろうか。それは一体どんな時なんだろうか。前述したような、全てが覆るような経験をすると、音楽に内在する魂の存在と果てしない力強さを感ぜずにはいられない。私はここでまた一つ、例の一節を繰り返してみた。
 音楽のちからは、時として苦痛をもたらすものだったのかも知れない。ただ、楽しいものだけではない。何故なら、私には音楽を通じて人に伝えたいことがあまりに自己中心的過ぎると気付いたからである。それに向き合うということは、自分自身も気付かなかった(気付く必要があったかどうかは分からない)自身の奥底の部分と対峙することであり、楽しかったとはとても言えないように思う。客観的に自分を見ることは、時として残酷な一面も持ち合わせているからである。

4、音楽のかたち
 この世界には、数えきれない程の音楽が溢れている。私の住んでいる町中には音楽が溢れ、それが、売られているものであったり、生活から生まれたものだったり、何かに訴えかけるものだったりと様々な形態を持っている。“音楽”と日本語で書けば、文字通り楽しいものに感じるが、私達はそれに縛られているのかもしれない。なぜならば、英語表記の“MUSIC”という言葉のどこにも“楽”という意味は含まれていないように思う。だとすれば、音楽はただ楽しいだけのものではない、という事にだってなり得ると思う。
 実際にジャズのルーツ等は黒人の悲しい歴史の中で生まれて、今なお多くの人々の心を動かしている。音楽は決して商業のためだけにあるものではなく、人々が生きることそのものなのかもしれない。
 参考文献p17には、エジプト・ナイル川で行われているサーキアという方法で、地下水をくみ上げる際に老人や子供が歌う歌が一例として挙げられている。老人や子供にとっては相当過酷な仕事のはずで、そこで歌われている音楽は決して誰かを楽しませたりお金のために生まれたものではないと思う。著者が冒頭に挙げたように、時として苦痛に感じるのは、音楽について深く知れば知る程、その形なき奥深さに胸が締め付けられたからかもしれない。

5、ジプシーからのヒント
 まだまだ、もう少し答えに近づきたかった私は“ジプシーキャラバン”という映画を見ることにした。この映画は2006年に制作されたもので、インドにルーツをもつ移動型民族のロマ(ジプシー)たちが6週間かけて北米都市を回ったときのものを収めたドキュメンタリー映画である。その中には、音楽ひとつで43人もの子供を育て上げた歌手もいた。なんてカッコいいのだろうと感動せずにはいられなかった。フラメンコ奏者の女性がロマの音楽を語る時、“ドゥエンテ”というものの存在を知った。“ドゥエンテ”とは、感情を引き出す魔性の力のことであり、それは学び取るものでない。自然と内側から湧き出るものなのだ。彼らは誇り高き民族であるが、差別を受けてきたのも事実である。しかし、音楽を通じて彼らは自らの存在を世界に向け発信したのである。それは、とても勇敢な行為であり、多くの人を勇気づけたと思う。これこそが、音楽のもつ本来の力なのではないだろうか。誰かを勇気づけ、生き抜くために自らも奏で続ける。どんなものでも使って、彼らは奏で続けてきた。それこそが、音楽の本来の姿のように思う。

6、終わりに
 音楽は苦痛なのだろうか?それとも楽しいものなのだろうか?そんな疑問から出発し、正直未だ答えは見つけられなかった。しかし、それは私が今迄幸せに何不自由なく、暮らし得来た証拠のようにも思う。私にとっての音楽は楽しむものであったし、誰かに与えられてきたものだった。しかし一歩外に出てみるとそれは、人々が行きて来た足跡のようなもので、この幸せな島国ではなかなか考えづらい現実だと思う。
 世界では、生きる人々の生きた音楽が沢山溢れている。きっと商業目的のものの方が少ないのではなかと、思うほどである。




(1) 小泉文夫『音楽の根源にあるもの』平凡社ライブラリー、1994

手塚治虫がマンガ文化に与えた「地獄的なもの」

【2011年度 日本文化論 第1課題】

ブラック・ジャック』にみる手塚治虫がマンガ文化に与えた「地獄的なもの」に関する考察 ----- ランドスケープデザインコース 巽 健次




■「地獄的なもの」の意味
 梅原猛著『地獄の思想』を題材に「地獄的なもの」について考察する。まずは著者が定義する「地獄的なもの」とはどのようなものかを考えてみたい。
 地獄的発想とは一般的に、生前に悪行を行った人間は死後に地獄へとたどり着き、さまざまな罰を受け続けることと理解されている。著書ではこの地獄的発想は源信によって天台思想に結びつけられたとしている。
 それ以前の仏教、釈迦が説いたとする考えにおいては地獄的発想は結びつけられていなかった。四苦八苦というさまざまな苦悩は欲望によって生じ、その欲望を滅ぼす正しい方法を説く思想であった。それより時代が下って源信の時代になると、釈迦の思想を発展させ、世界は十界互具という概念を誕生させる。つまりこの世は苦であり、地獄の世界であるとした。仏教と地獄思想の融合である。そしてこの世を逃れて極楽浄土へと誘うための阿弥陀仏信仰を体系させた天台宗が誕生する。
 源信が活動した時代は飢餓や飢饉が蔓延していた時代で、当時の時代背景とひとびとの望みに応えることが教義に大きく影響したであろう。天台宗と地獄思想が融合したのは源信の解釈と尽力によるのに加え、時代背景や社会現象の影響によるところも大きいだろう。この天台思想と後年誕生する極楽思想を合わせ持った浄土思想が展開することで、日本的ともいえる日本独自の思想や文化を発生させる要因となったと著書では示されている。
 著者が説く「地獄的なもの」の意味を読み説くと、人間に道徳恐怖を吹き込む概念だとしている。「地獄的なもの」を提示することによって暗さや苦の教え、人生の無常、生の不浄を説明する。それらを凝視することで、人は自己反省を促される。これにより人間の魂は豊かなものとなり、暗いニヒリズムにも耐えられる生命の強さを育むこととなる。「地獄的なもの」は暗い生の面を直視できる生の勇気、明るいことを見いだす苦の教えであり、苦悩をみる眼を与えて人間を見る眼を深くさせる。この一連の活動が大きな影響を及ぼし、日本文化は健全な豊かな色彩を放つに至ったとしている。世俗の価値とは別の価値観で生きることを教えたともいえ、他の国では見られない精錬された日本独自の思想や文化に深みを与えた必要不可欠な要素であるともいえるであろう。

■マンガ文化を創出した手塚治虫
 著者の考えを踏まえたうえで新たな地獄的な現象を考えてみたい。そこで本レポートでは手塚治虫に注目する。
 手塚治虫は誰もが認める日本のマンガ文化の礎を築いた人物である。また世界に類のない今日のマンガ文化が日本で成立したのは手塚の存在があったからといっても過言でない。
それまでのマンガとは一線を画する活き活きとした描写表現で手塚治虫作品は多くの人を魅了した。手塚の出現によって今日の日本マンガの表現手法が確立したともいえるだろう。また画風だけでなく、ストーリーにおいても大きな影響を与える。生命や生きる喜びなどを題材とした人間の根元的なテーマ、重厚で壮大なストーリーを作品で展開させた。それまでのマンガといえば滑稽な内容や風刺といったものが大半であったが、手塚作品によってマンガはひとつの総合美術として昇華され、完成させられたといえる。
 現在日本製マンガは世界へと発信され、多くのファンを魅了し影響を与えるひとつの文化となった。その魅力はマンガに込められた文化的精神や哲学的な意味のように思われる。これは「地獄的なもの」ではないだろうか?マンガ文化の基本となった手塚治虫の思想や表現に「地獄的なもの」を見い出せられるのかもしれない。

■『ブラック・ジャック』にみる地獄的なもの
 手塚作品には『ブッダ』や『火の鳥』など仏教観を題材にした作品もあるが、ここでは『ブラック・ジャック』を取り上げたい。連載当時、手塚治虫は業界で既に巨匠的な存在となっており、ひいては世間に古いマンガ家として認識されている感があった。そのため本作は彼がマンガ家生命の起死回生を狙って渾身の想いを込めつつ、医学生であった自身を主人公に投影させたといわれている。そのため作品からは手塚治虫が考える思想や感情が伺い知れ、「地獄的なもの」が垣間見られる。
 『ブラック・ジャック』は天才的な外科技術を持ちながら、法外な治療費をとるブラック・ジャックという無免許外科医の物語である。あらゆる病気や怪我を治しながら、患者とブラック・ジャックによってさまざまな人間模様が繰り広げられ、生きる意味や生命の尊厳についての物語が展開する。
 ブラック・ジャックに依頼をする患者はさまざまである。金にものをいわせて治療を依頼するもの、治療費が払えず自分の命をかけて愛する人の治療を願うもの等々。いずれにしても難病を前に、患者は欲をむき出しにしてブラック・ジャックに頼んで完治を希望し生きることを願う。ときにはその欲が醜い人間の負の部分をさらけ出す。他人を押しのけて治療を乞う自分勝手な浅ましさや自暴自棄となって命を粗末にする愚かさなどが現れる。ブラック・ジャックは素直に治療することもあれば、どんなに大金を提示されても拒否することもある。病気が完治することもあれば一生その病とつき合うこととなるが、ブラック・ジャックの対応によって患者の心の中には変化が生まれ、そして何かが残る。それはキャラクターの心の中に潜む「地獄的なもの」ではないだろうか?
 死は自然なものとしてとらえられる。人の死は誰にでも与えられるものであり、避けては通れない現象である。死までの限られた時間のなかでどう生きるのか?必死にもがきながらも、精一杯生き抜くことに人生の素晴らしさ、生命の尊さがあるというテーマが『ブラック・ジャック』に秘められている。登場するキャラクターは欲にまみれた行動、愛を育もうとする営み、喜怒哀楽、憎しみなどすべての感情を沸き立たせ、ブラック・ジャックを通じて人間の負の部分「地獄的なもの」を知らされる。美しい面があればその反動で醜いものも存在させることで人間は振り子のごとくバランスを保つ。そして大きく動きバランスを保つことに美しさがある。欲のため狭くなった視野を広げて、そのバランスを全体俯瞰させて美しさを感じさせる役目をブラック・ジャックが担っているのである。
 またこの作品の読者も第三者の立場として「地獄的なもの」をストーリー展開を通じて感じることになる。いわば「地獄的なもの」を巡っての二重・三重構造の仕掛けがあるといえるだろう。この特殊な構造は『ブラック・ジャック』という作品が手塚治虫自身が「地獄的なもの」について仮想体験した体験談であり、彼自身が考える「地獄的なもの」の解釈説明書だからではないだろうか。それだけ手塚治虫自身の考えが色濃く反映されている証明だろう。

手塚治虫の「地獄的なもの」による影響

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 『ブラック・ジャック』の作品中に次のようなセリフがある。
「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんね・・・」※
 ブラック・ジャックを育てた医者が彼にかけた言葉であるが、手塚治虫が作品を通じて伝えようとした思いがそのままこのセリフとして発信されたといえる。どうしても避けることのできない死は死として受け止め、医者も患者も生きることに注力する。「地獄的なもの」を通じて生命の豊かさや素晴らしさを体験することが大事ではないかと主張しているかに思える。マンガというものを通じて「地獄的なもの」を紹介し、あらゆる欲やキャラクターの行動を見せることによって、より豊かな人生を感じさせ、より良い人間の活動を目指すことを提案しているように思えてならない。
 このような手塚治虫の功績があって、普遍的で老若男女に受け入れられるテーマを兼ね備えたマンガが誕生した。このスタイルが日本製マンガの基本となった。今日のマンガ文化の発展は手塚治虫の示した「地獄的なもの」があったからこそ成り立ったのではないだろうか。手塚治虫が示した「地獄的なもの」は形は変えつつも、マンガ文化を通じて豊かな日本独自の文化のひとつとして提示され、読者の人生を豊かにする一助を担い続けるに違いない。

以上


<参照>
※:手塚治虫手塚治虫漫画全集151ブラック・ジャック①』九〇ページ、第4話「ときには真珠のように」より。

<参考文献>
手塚治虫手塚治虫漫画全集151ブラック・ジャック①』講談社、一九七七年七月十五日第一刷出版
手塚治虫『ぼくのマンガ人生』岩波新書、一九九七年五月二〇日第一刷発行
・今川清史『空を越えて−手塚治虫伝』創元社、一九九六年十一月二〇日第一刷第一刷発行
・『芸術新潮2008年11月号 特集生誕80周年記念手塚治虫を知るためのQ&A』新潮社、二〇〇八年十一月一日第一刷発行


 

 

 

京都発見 スクーリングレポート 「高瀬川を歩く」 陶くみ枝

【2010年度 「京都発見」】

スクーリング・レポート「高瀬川を歩く」 陶芸コース 陶くみ枝






 「地域学基礎」で、居住する最寄りJRの我孫子駅が明治29年に開設される経緯を調べた。東京・日本橋から24kmに位置するこの町は東京のベットタウンとして比較的利便性の高いエリアである。この課題に取り組むまでは鉄道のない時代の交通手段を、地元の視線で考えることはなかった。乗合馬車と運河を利用した高瀬舟が活躍していたということを知り、江戸・明治のこの町の生活や風景がリアルに迫ってきた。
「京都発見」では「高瀬川を歩いてみよう」と思った。京都を流れる時間軸を高瀬川をとおして辿ってみたいと思った。

高瀬川の源流

 河原町三条でバスを降り高瀬川三条小橋に出る。昨日の雨に濡れ木々も石畳もその色を濃くしている。柳と桜が運河にせり出し影を水面に映す。運河と聞いていたが川底まで石組みで造成されているのに驚く。一之舟入まで川沿いを上ると、米俵や酒樽を積んだ復元の高瀬舟が浮かんでいる。高瀬川のはじまる道路下暗渠から、勢いのある水が流れ出ている。この水は何処から来るのかと周辺をうろうろする。向かいに「がんこ」という料亭があった。立て札があり「高瀬川の流れは、豪商 角倉了以の別邸跡「頑固高瀬川二条苑」を通り、木屋町通りをくぐって再び姿を現します。」と記されている。なるほどと思い別邸を廻ると、鴨川がたゆたゆと流れていた。橋から見ると鴨川の西岸に幅5m程の川が流れている。見つけた。その流れは角倉別邸前で左折し敷地に吸い込まれている。鴨川沿いの遊歩道に降り、犬と散歩中の方に尋ねると、鴨川と加茂大橋下流で分流し並走しているという。みそぎ川といい魚はこの流れを遡上するそうだ。鴨川よりもかなり高い水位を保つ。水はここで助走を付けて、高瀬川に流れ込んでいたのだ。


 角倉了以(1554?1614年)は、我が国の運河の開祖といわれる。豊臣秀吉朱印船に加わり、ベトナムとの交易により莫大な富を築くなかで船の便益を知る。徳川家康の命により大堰川富士川を開削し舟運路を開く。馬による輸送から舟運への転換は大量輸送を可能にした。晩年豊臣秀頼より方広寺大仏殿再建の資材輸送を命じられ、京と伏見を繋ぐ運河を計画する。二条から九条まで高瀬舟に適合させた川幅7m余、10.5kmの運河である。高瀬舟は荷を積んでなければ10cmの水位で浮くそうだ。運河には洪水に配慮した樋門と9カ所の舟入が設けられた。高瀬川沿いには木材、米、塩、金物などの問屋が建ち並び木屋町として賑わう。運河は京都の産業・経済発展に貢献し、豊富な生活物資により市民生活は安定したという。
 大阪から淀川を30石船などで荷を運び、伏見の三栖浜で積み替える。早朝15、6隻の数珠つなぎになった高瀬舟を、曵き子たちが「ホーイ・ホーイ」の掛け声で上流に向かって上る。20m程もある引き綱を舟の動きに合わせて操るにはコツがいる。川に落とされる曵き子もいたようだ。下り舟は町中の肥やしなどを積み竹田方面の農家に運んだ。
高瀬川高瀬舟の由来ではなかった。高瀬舟を浮かべたから高瀬川となったのだ。
 高瀬とは浅瀬のことだそうだ。高瀬舟は河川や浅海を航行するための船底の平らな木造船で、室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。

高瀬川 幕末の京都

 高瀬川を南下する。長州藩士の佐久間象山大村益次郎の遭難碑が建っている。すぐ裏は長州藩邸跡だ。対岸には武市瑞山寓居跡、吉村寅太郎寓居跡の碑が建つ。三条小橋に戻り池田屋を捜すと、そこは居酒屋だった。ネットには「新選組が討幕派浪士を襲撃した池田屋騒動のあと、主人の池田屋惣兵衛は獄死、池田屋は営業停止となった。その後、縁者らにより三条木屋町付近で同じ屋号で営業していたが、やがて廃業。戦後、別の経営者が旅館を経営後、ファストフード店の入るテナントビルやパチンコ店などになる。2008年からは空きビル。 09年居酒屋チェーン「チムニー」(東京都)が「はなの舞 池田屋店」として営業。池田屋の名前が復活する。」とあった。動乱期の商いは、その志も半端なものではなかったのだと知る。
 その南に「坂本龍馬寓居之跡」碑がある。「酢屋」という木工芸店で二階は「ギャラリー龍馬」として、龍馬が隠れ住んだ二階の部屋を再現し、屋根裏から出てきた龍馬の写真や手紙、海援隊日誌等を展示している。海援隊京都本部をこの家に置いたというから、酢屋嘉兵衛6代当主は維新の活動を理解し、覚悟を持って援助を注いだのだろう。酢屋は江戸時代から営む木材業の屋号で、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたという。現在は本業を別なところに移し、現10代当主まで290年間木材業を営んでいるとう。酢屋の向かいには派手な「ももじろう」の居酒屋の看板が上がっている。木屋町の繁華なエリアは入れ替わり立ち替わり持ち主を変え、姿を変えているのだろう。酢屋家の縁者とおもわれるスタッフの方に、お茶をご馳走になりながらとうかがうと、公的支援はなくこのギャラリーは、個人で維持しているという。地価の高騰はギャラリー保存を圧迫すること、今の龍馬の流行以前から保存してきたこと等を話して下さった。
 四条に向かう。木屋通と先斗町を路地が縫う。飛び石を配した路地、緑の優しい路地、生活感のある路地。様々な表情に京都人の洒落っ気が伝わる。
 龍馬も、武市も、弥太郎も歩いたのだろうか。NHK龍馬伝」のシーンを思い出した。新撰組に追われる岡田以蔵を庇いながら「以蔵、逃げやあ」と龍馬が叫ぶ。ふと板塀の路地裏で四次元の世界に誘い込まれるような思いにとらわれた。
(2317字)


参考資料
「舟運都市 水辺からの都市再生」 編者:三浦裕二 陣内秀信 吉川勝秀
「京都高瀬川 角倉了以・素顔の遺産」 著者:石田孝喜
ウィキペディア
ブログ: http://hakubotan0511.blog.shinobi.
(前につづけて下さい)jp/Entry/3106/

祈りと民俗芸能---じゃんがら念仏踊り

【2010年度 東北地域学】

祈りと民俗芸能---じゃんがら念仏踊り 日本画コース 服部澄子



 祈りと民俗芸能を自分の住む地で考えるならば「じゃんがら念仏踊り」がある。現在いわき市内においてみられる形態を示し、資料をもとにその歴史と「じゃんがら念仏踊り」のもつ意味を考えてみる。
 初めてじゃんがら念仏踊りに接した時、その騒々しい太鼓と鉦の連打や激しい動きの踊りに盂蘭盆の行事であることの関連性を感じることが難しかったが、じゃんがら踊りの行われている庭に向けて置かれた遺影とそこに畏って列んで座る一族の人たちを見て、念仏踊りに違いないと納得したことを思い出す。現在、じゃんがらを踊る団体は100を越える。名称は「じゃんがら念仏踊り」であるが、地区の人びとは「じゃんがら」あるいは「念仏」と呼ぶ。

 じゃんがら念仏踊りの行われる時期と場所、形態については、盂蘭盆の前後数日にわたり行われる。主に新しい仏の供養としてその家を訪れて踊る。新盆の家で踊る前にじゃんがら念仏踊りの集団が所属する地域の寺に集まり、そこで踊った後新盆の家々をまわるのが一般的である。じゃんがら念仏踊りの組織はその集落の青年団などが組織していて、十五歳から三十五歳位までの男性が中心である。服装は浴衣に黒帯を締め、両たすきで背で蝶結びにする。頭には豆絞りの手拭いで前鉢巻き、白足袋に麻裏草履をはく。楽器は締太鼓と鉦(資1)の二種である。締太鼓の胴はけやきのくり抜きで直径、胴長ともに31センチメートルから33センチメートル程で、南無阿弥陀仏と染め抜いた布を巻きつけ帯から下に横吊りにする。バチは先端にふくらみのあるもので白毛をつけてある。両手に持ち左右の面を打つ。鉦は直径十五センチメートル前後の伏鉦で、踊る時は木枠に吊して首から下げ左手でささえて右手のつちで横打する。じゃんがら念仏踊りの一行は寺から出発する(資2)。提灯を持ったリーダーを先頭に太鼓三名、鉦十名前後の順に並び、道中囃子(資3)を奏しながら新盆の家に向う。曲は道中流しまたは流し太鼓と呼ばれて太鼓、鉦が同じリズムでたたくのである。新盆の家に着くと仏壇に向って二列にならびリーダーが焼香する。その後道中囃子を奏して太鼓を囲むように鉦の人たちが円陣をつくる。はじめに念仏をする(資4)。太鼓のリズムにあわせ歌いながら手踊りする。この時新盆の家の人が一緒に踊ることもある。左まわりに回りながら両手を左、右と交互に振りあげる動作をくり返し最後に中央で手を打つ。念仏の歌を三回から五回くり返したところで急に激しく太鼓が打たれ、テンポを早めてぶっつけといわれる踊りになる。歌はやめて、鉦を激しく打つ。太鼓は右手打ちのリズムを主にして左手を高く振りかざし複雑なリズムを打つ(資5)。足どりを後ろに二拍で一歩下がり右まわりになる。止め太鼓(資6)で打ち止める。終わると二列に並びリーダーが挨拶して道中囃子を鳴らしながら次の家へ向う。新盆の家での踊りは主に庭で行われるが、仏間で踊ることもある。

 じゃんがら念仏踊りがいつ頃から始められたかは不明であるが由来については『磐城小川江筋沿革史』に見ることができる。小川江筋の開削者である澤村勘兵衛勝為の一周忌で農民が「じゃんがら念仏踊り」を踊ったのが始まりとされる。澤村勘兵衛勝為は慶長十八年(1613年)千葉県君津郡佐貫町で生れ十五歳の時、平字才槌小路に移ってきたと言われている。勘兵衛は兄の甚五衛門と共に平藩主内藤忠興公に仕えた。寛永十年(1634年)郡奉行に任ぜられた。藩主の命令で、水に恵まれず干ばつに苦しむ農民のために小川江筋を三年三ヶ月かけて開削した。難工事のうえに、大量の蛇が現れそれを恐れて工事を放棄する人が出てきたので、勘兵衛は蛇塚を築き利安寺という寺を建て供養し工事を完成することができたという。しかしその寺を建てたということが勘兵衛の功績をねたんだ者の企みにより明暦元年(1655年)七月、切腹をさせられた。その霊をなぐさめるための踊りがじゃんがら念仏踊りの起源といわれている。その元となったのが江戸時代初期の「泡斉念仏踊り」であるとされる。泡斉という常陸の国の僧が寺院修理のために江戸に行く途中、花笠をかぶり太鼓を肩にかけ鉦を手にして念仏をとなえながら歩いたのを泡斉念仏踊りといい、そこにいわきの民謡を取り込んだ念仏踊りがじゃんがら念仏踊りと言われる。明治時代に大須賀筠(竹冠に均)軒が書いた『歳時民俗記』はその頃のじゃんがら念仏踊りについて記したものである。その中の一節の「ぢゃんがら念仏トハ、即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ鼓ヲ撃ツ」は、ぢゃんがら念佛とは念仏おどりのひとつで、男女が列をつくったり輪になったり鉦を敲いたり太鼓を敲いたりするものであると記してあるのである。また明治六年一月に当時の磐州が出したぢゃんがら禁令がある。「磐城国ノ風俗、旧来念仏躍ノ相唱へ、夏秋ノ際、仏名ヲ称へ、太鼓ヲ打、男女打群レ、夜ヲ侵シテ遊行シ、中ニハ如何ノ醜態有ノ哉ノ由、文明ノ今日有間敷、弊習ニ付、管内一般本年ヨリ、右念仏躍禁心申付候条、少年児女ニ至ル迄、兼テ相違置可申事」というのがある。男女が一緒に踊るじゃんがらを禁止するという意である。また、この文から当時は男女が群れをなして夜遅くまでまた夜の間中じゃんがらを楽しんでいたことがわかる。その行為が禁令を出さなくては成らない程盛んであったことがうかがえる。当時は子どもたちもじゃんがらに参加していたこともわかる。現在のじゃんがら念仏踊りは新盆の家をまわって踊るだけのものであるが、江戸時代から明治の禁止令が出るまでのじゃんがら念仏踊りは老若男女入り交ってのしかも夜中まで踊るものであった。先出の『歳時民俗記』のなかに「男ニシテ女化粧スル者アリ。女ニシテ男化粧スル者アリ。或は裸體ニシテ、犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ヒ、後者モ亦*(巾偏に昆)端ヲ尾垂スルアリ」とある。じゃんがらを踊っていた男女は男粧や女粧したり、褌姿でその褌の端を後の人の褌に結びつけておどったとある。念仏というより性のおおらかな行動にもみえるのである。明治二十八年再びじゃんがら念仏踊りが踊られるようになったが、男性のみの踊りになったということである。

 一九七九年時にじゃんがら念仏踊りが行われている地域は地図(資7)に示した分布であるが、一九八九年の調査報告書によれば百六ヶ所で行われている。しかし二〇一〇年の現在、踊り手に支払われる手当てが一人一万円という相場になっており、新盆の家の出費が負担になる為じゃんがら念仏踊りを招聘しなくなりつつあるということである。踊り方においては経年による変化が各地でみられ、鉦切りの踊りひとつとってみてもひざを高く上げてのごつごつした感じの動きから、擦り足のなめらかな動作に変化しているなどみられるとのことである。また、女性が加わっている団体もあり社会的な側面での影響変化も考えられるのである。分布図や調査報告書にようれば北限は楢葉町、南限は北茨城市でありじゃんがら念仏踊りは平地区をちゅうしんとした農村部に分布が集中しており海に接した小名浜地区には全く存在していないのである。新盆のためだけのじゃんがら念仏踊りなのだろうかという疑問が出る。地区によっての違いはあるが前歌と後歌にはさまれる歌をみると、

 おどる おどるのは 仏の供養
 田ノ草取るのは 稲のため
 盆でば米の飯 おつけでは茄子汁
 十六ささげの よごしはどォだハ
 閼伽井山嶽から 七浜見ィれば
 出船入船 大漁船
 誰も出さなきゃ わし出しまァしょか
 出さぬ船には 乗られない

また、

 米のなる木で わらじを作りゃ
 踏めば小判の あとがつく
 今年しゃ豊年 穂に穂が咲いて
 道の小草にゃ 米がなる

など、歌にうたい込まれている内容は、仏の供養や盂蘭盆に関する他に五穀豊穣や大漁などの祈願に関するものがある。春から夏にかけては夏に収穫する作物の発芽生成期である。太平洋に面したいわき地方はヤマセという冷い風と一日中霧に包まれた太陽の出ない日が続き作物が生育しない気候が続く地である。また旧暦の盆の頃はいわき地方では最も気温の高い時期でじゃんがら念仏踊り行われる地域は農村地帯で、じゃんがら太鼓と鉦で大音響を発するのは田畑に害虫が発生する時期と重なる。作物の生成をおびやかす種々の御霊を鎮める意味をもつ虫送りや雨乞いなどとむすびついていないだろうか。そう考えるなら漁業地域である小名浜地区にじゃんがら念仏踊りが存在しない理由も理解できるのではないだろうか。



参考資料
いわき市史第二巻』いわき市、一九七二年
いわき市史第七巻』いわき市、一九七二年
『いわきのじゃんがら・念仏調査報告書』いわき市教育委員会、一九七九年
夏井芳徳『じゃんがらの夏』神谷漣文庫、一九九一年
『磐城誌料・歳時民俗記』いわき市、二〇〇三年
『いわき伝統芸能フェスティバルの記録、じゃんがらのひろがり、念仏踊りの系譜』いわき市教育委員会、二〇〇一年
『磐城小川江筋沿革史』磐城小川江筋沿革史編纂委員会、澤村神社、発行年不明
映像『じゃんがら念仏踊りいわき市暮らしの伝承郷、二〇一〇年






*資料は後日追加します (編集者)

 

 

地獄の思想とは?   美術科 日本画コース 栗原三恵

【2010年度 日本文化論】

地獄の思想とは?   美術科 日本画コース 栗原三恵



 まず、はじめに地獄を考えてみた。生前に、悪業を重ねた者が死後に行く所で、非常なる苦しみを受ける。例えば、祖父母から、よく聞かされたのは、針だらけの針山を登らされたり、盛んに燃えている炎の中にほうり込まれたり、閻魔様に舌をぬかれたり、とあらゆる責め苦があり、常にその責め苦にあわされる。人間の時は、体があったから、どんな苦しい死に方をしたとしても、死んでしまえるが、地獄に落ちた者は、魂である為、死ぬことができず、苦しみ続けるのだということ。そして鬼が、そこかしこにいて、恐ろしい形相で見張っている。私の家は、兼業農家で、父母は、仕事が忙しく、姉二人とは歳がはなれていたせいか、幼い頃は、祖父母と家に居た記憶が強くあり、この話を聞いたのは、かなり幼い頃で幼稚園に通わされるまえだったと記憶するが、それでも想像とはすばらしく、きっとその頃と今とでも、想像上の地獄は、ほとんど変っていないと思う。まず、怖いところで、痛い思いが続き、逃げることができない。絶対に落ちたくない場所という思いも変らない。幼い頃は、祖母が、針仕事をしていると、そっと一本の針をかりて、足裏にちくちくとしてみたり、自分の舌をつまんでみて、つまんだだけでも痛いと実感してみたり、お風呂は、薪で沸かせたので、お風呂に浸かりながら、熱くなりすぎると水を足すのですが、足さずに、熱湯に入るとはどんな体験なのだろう? と考えたりし、熱さを怖れた。又祖父が、五右衛門風呂の由来を話し、聞いたことを思い出しては、いったい、どんなに苦しい思いをしたのだろうと想像し残酷だと考えたりもした。このような(何万分の一のような体験ですが…)ことが、日々くり返されているところが地獄だとしたら、それを広めた人物が必ずいる。私はおの『地獄の思想』梅原猛著を読む前は、あまりにも無知であったことに気づかされた。私の知識の中では、仏教においての教義として、釈迦(仏教の開祖)が広めたことだと思っていた。だが、インドにきたことが文献「ブラーフマナ」により知ることになり、それ以前の文献では、地獄の叙述はなく、死者はその肉体をはなれて、永遠の光のある場所に行くと説かれている(『地獄の思想』p.60)。ではインドはどこから地獄の思想を知ったかというと、西紀前三千年のころ栄えたシュメール族の「戻ることのない国」クルの信仰で、ギリシアのハアーデースにもなったという(岩本裕『極楽と地獄』三一書房)。東西の地獄思想は、すべてシュメール文明との説があることを知った。釈迦の時代には、当然のごとく、民衆のあいだに浸透していたのであるが、なぜ、仏教と地獄思想は、ペアのように感じられたのかが、少しずつではあるが理解できてきた。

 釈迦は、人生は苦であり、その苦は欲望を原因とするという思想である。そして、欲望にふけったことの結果として地獄が生れるともいっている。そして、欲望は、さまざまに、分析され、苦悩の原因を明らかにし、苦悩の原因が欲望にあるとすれば、欲望をほろぼす必要がある。欲望を滅することができたなら、苦も滅することができる。釈迦は、冷静に、ありとあらゆることを考察し、自分自身の心に生れた感情も、整理し分析し、教説をつみあげていったのである。このように考え実行できる釈迦という人物は、とても、心から人間をそしてその魂を信じているが、(信じたい)と、ゆれる心も持っている。そして、心理の追求を放棄してしまう人間に対して、地獄を語ったのだと推測できる。本来、仏教は、釈迦が、人間を愛して苦を救おうとする慈悲より誕生した。それゆえか、四諦説(四つの真理)の中で苦諦説(人生は苦であるという真理)が出発点としている。そっから苦を更にひもとき、人間としての、誰でも悩む事であろう生の苦、老の苦、病の苦、死の苦の四苦に、また、そこに、漢字の意味どうりの、愛別離苦、怨憎会苦、救不得苦、五蘊盛苦の四苦を加え八苦ともした。生、老、病、死の四苦は、のがれようにも、この世に、長く生きれば生きるほど必ずといって直面し、だましだましで、折り合いをつけ生きて行かなければならないことでしょうし、あとに加えた四つの苦は、日常において、大なり小なりかかえている悩みを、人生の洞察から解説されていて、釈迦の目線が感じられ(近い位置に)、あらゆることも逃さずに真理を追求して行く姿勢に、私の知っている仏教との違いをまざまざと感じた。
 苦諦の原因は、欲望である(集諦)。と言いきり、その欲望を、欲愛(人間の心のなかに燃える激しい欲望)と有愛(生きていたいと思う欲望)と無有愛(存在したくない、無への欲望)とに分け、苦の原因追求に前進している。しかしながら、まるで、仏教とは、本来は心理学ではないのか!? と。しかし、それ以上に、あらゆる現象を見聞きし、たいへん多くの人間を考察し、そして深く洞察しないと、このように、苦諦説(人生は苦であるという真理)からのスタートはなかったであろう。そしてその原因を解く集諦を論じ、滅諦、道諦(欲望をほろぼす正しい方法)とすすむ。道諦を総合すると八つの正しい欲望のほろぼし方とし、八正道を教えて知恵をみがき、行をつつしみ、心を静めることによって欲望をほろぼせといっている。仏教生活の基本条件は、この中の正見、正思惟(正しい考察)正語し、知恵をもってして、正業(正しい行ない)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)の戒律を守り、正念(正しい思慮)正定(正しい瞑想)の瞑想をせよと三つを柱としている。私は人生は苦であるという真理を前面に包み隠さず、正直にいっている釈迦の仏教が本物であると強く実感した。

 中学校の卒業の頃だったか、少しずつではあったが感じはじめていたことなのだが、高校に入学し、まもなく、そこことはやってきた。そのこととは、「生きるとは? いったいなんぞや」であり、この問いは常に、呪文のように離れず、生きることについて書かれてある(題名などより)本を読み、少しでも自分自身が感化される一文はないかと探す。そして、できることならこの呪文のような問いの答えをみつけだしたいと願いながらも、みつけ出せずに日々過ごしていたことが続き、一人でこの問いと向き合って悩んだ時期を思いおこさせた。贅肉のない感受性をもった高校生の私の三年間は、自己と向き合うことで精一杯であった。釈迦によるところの、集諦(欲望)であり、欲愛があり、しかもそれよりも強くこみ上げてくるのは無有愛(無への欲望、破滅願望)で、でも死は怖くないとは言いきれず、そこに有愛がある。集諦の中の三つがいびつなトライアングルを作り、まるで支えあっているかのようだ。出口のないままのトライアングルは、私にとっては、38年間の中で、体験上「地獄の思い」であったことは確かである。なぜかこの思いは<自分で解決しなければならない>との思いが強く、ほとんど口には出さずにいたことが、より深い傷口を自ら生み出していった。類は友を呼ぶといわれているが、その頃は太宰治の「グットバイ」を読み深め、あの独特の言葉づかいが心にうつって、心思うことが浮かぶと、心の中であの言葉づかいでつぶやき、文章にしたり日記を書いたりした時もあのように、自分であり自分でないようなかたちの文で、自己の思いにやや陶酔しているような傾向のものになっていた。
 今振り返ると、10代の後半は決して明るいものではなく、むしろまっ暗で、高い理想や夢も、簡単に叶うわけもなく挫折し、暗中模索の日々を過していた。自分とは何者か? 何ができるのだろうか? どう生きたらよいのか? との呪文のような問いかけの日々…。今であれば「大好きな子供の成長を見届け、ワインを美味しく飲めるように生きて行きたい。そしてすばらしい芸術作品(本物の)とできるだけ多く出会い、感動を共有し、自分の作品を納得のいくものにしていく為に生きたい」と断言できる。あの悩み多き地獄だと思っていた頃は20年後にあっけらかんと主張している自分を全く想像していなかったであろう。人間、地獄をやりすごすと強くなれるのだ。
 呪文のような問いかけに決着がつく時も生きていれば必ずおとずれる。生きて、出会って、学んで、仕事して、遊んで、傷ついて、感動する。生きる、とにかく生きることが大事なことだと思う。こう思えたきっかけは苦悩していた20年前、高校卒業間近の頃、「死ぬために生きよう」と答えがでてきてから徐々に霧が薄らいでいった。唯一、精神論!?、心の中を話し合える友人に伝えたところ、目をパチパチとさせ、「いったいどいゆうこと?」と聞き返された。私は「死を前に悔いを残すことはしたくないから、今を生きる」と、そして「死」はいつともかぎらずやって来るものだからとにかく生きる」と付け加えていたように思う。

 今回、日本文化論を選択し、梅原猛著の『地獄の思想』を熟読する機会に出会えたことに深く感謝致します。仏教が人から人へと伝来していく中で植物の根のように、新しい思想を加えたり引いたりして生れたこと、地獄の思想も、いったい何が悪いことなのであるかを知らしめる一つの手段でもあったはずだ。人間は経験をとおして学んで行くが、釈迦がいったように、欲望による、かたよったことだとしたらそこに地獄が生れるのである。源信の説く『往生要集』にしても、地獄の恐ろしさとかく注目を浴び、この世で罪の重いものほど苦悩の多い地獄に落ちると言っているが、源信は地獄(あの世)に行って見てきたわけではない。それでも人は恐ろしさとともに興味をもち受け入れる。そこに、実は願望も含んでいるから現在にまで語り継がれている。きちんと成立している。この世でも、殺人者を死刑にしてほしいと思う意見のほうが、日本では圧倒的に多いのである。源信は空想で『往生要集』を説いたのではなく、この世でのでき事で、実際に地獄にいるように苦しんでいる人間の深い観察から発しているのだ。民衆の期待に応え、そして理解し、納得し、万が一、悪行に手を出しそうになってしまった時、強烈な地獄を思い出させ、自制心が働くことを願って、より印象的に、強く心に残すことができるよう説いたのである。全ては「この世を生きる生きとし生けるもの全てに対する愛から生れた」と私自身は『地獄の思想』を解釈してみました。地獄をはなから非科学的だと馬鹿にする人が、現代には以前よりもまして増えている。「だれでもよかった。ムシャクシャしていたから刺した」。ニュースでよくこのセリフを耳にする。良心を教えてもらえずに生きてきた人間に、いまやたのみのつなの地獄の思想までもが消えかけてきている。この社会をより生きやすく変えて行くには、「一人一人に何ができるか?」。大きな大きな課題が内在していることを忘れてはいけない。