京都発見 スクーリングレポート 「高瀬川を歩く」 陶くみ枝

【2010年度 「京都発見」】

スクーリング・レポート「高瀬川を歩く」 陶芸コース 陶くみ枝






 「地域学基礎」で、居住する最寄りJRの我孫子駅が明治29年に開設される経緯を調べた。東京・日本橋から24kmに位置するこの町は東京のベットタウンとして比較的利便性の高いエリアである。この課題に取り組むまでは鉄道のない時代の交通手段を、地元の視線で考えることはなかった。乗合馬車と運河を利用した高瀬舟が活躍していたということを知り、江戸・明治のこの町の生活や風景がリアルに迫ってきた。
「京都発見」では「高瀬川を歩いてみよう」と思った。京都を流れる時間軸を高瀬川をとおして辿ってみたいと思った。

高瀬川の源流

 河原町三条でバスを降り高瀬川三条小橋に出る。昨日の雨に濡れ木々も石畳もその色を濃くしている。柳と桜が運河にせり出し影を水面に映す。運河と聞いていたが川底まで石組みで造成されているのに驚く。一之舟入まで川沿いを上ると、米俵や酒樽を積んだ復元の高瀬舟が浮かんでいる。高瀬川のはじまる道路下暗渠から、勢いのある水が流れ出ている。この水は何処から来るのかと周辺をうろうろする。向かいに「がんこ」という料亭があった。立て札があり「高瀬川の流れは、豪商 角倉了以の別邸跡「頑固高瀬川二条苑」を通り、木屋町通りをくぐって再び姿を現します。」と記されている。なるほどと思い別邸を廻ると、鴨川がたゆたゆと流れていた。橋から見ると鴨川の西岸に幅5m程の川が流れている。見つけた。その流れは角倉別邸前で左折し敷地に吸い込まれている。鴨川沿いの遊歩道に降り、犬と散歩中の方に尋ねると、鴨川と加茂大橋下流で分流し並走しているという。みそぎ川といい魚はこの流れを遡上するそうだ。鴨川よりもかなり高い水位を保つ。水はここで助走を付けて、高瀬川に流れ込んでいたのだ。


 角倉了以(1554?1614年)は、我が国の運河の開祖といわれる。豊臣秀吉朱印船に加わり、ベトナムとの交易により莫大な富を築くなかで船の便益を知る。徳川家康の命により大堰川富士川を開削し舟運路を開く。馬による輸送から舟運への転換は大量輸送を可能にした。晩年豊臣秀頼より方広寺大仏殿再建の資材輸送を命じられ、京と伏見を繋ぐ運河を計画する。二条から九条まで高瀬舟に適合させた川幅7m余、10.5kmの運河である。高瀬舟は荷を積んでなければ10cmの水位で浮くそうだ。運河には洪水に配慮した樋門と9カ所の舟入が設けられた。高瀬川沿いには木材、米、塩、金物などの問屋が建ち並び木屋町として賑わう。運河は京都の産業・経済発展に貢献し、豊富な生活物資により市民生活は安定したという。
 大阪から淀川を30石船などで荷を運び、伏見の三栖浜で積み替える。早朝15、6隻の数珠つなぎになった高瀬舟を、曵き子たちが「ホーイ・ホーイ」の掛け声で上流に向かって上る。20m程もある引き綱を舟の動きに合わせて操るにはコツがいる。川に落とされる曵き子もいたようだ。下り舟は町中の肥やしなどを積み竹田方面の農家に運んだ。
高瀬川高瀬舟の由来ではなかった。高瀬舟を浮かべたから高瀬川となったのだ。
 高瀬とは浅瀬のことだそうだ。高瀬舟は河川や浅海を航行するための船底の平らな木造船で、室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。

高瀬川 幕末の京都

 高瀬川を南下する。長州藩士の佐久間象山大村益次郎の遭難碑が建っている。すぐ裏は長州藩邸跡だ。対岸には武市瑞山寓居跡、吉村寅太郎寓居跡の碑が建つ。三条小橋に戻り池田屋を捜すと、そこは居酒屋だった。ネットには「新選組が討幕派浪士を襲撃した池田屋騒動のあと、主人の池田屋惣兵衛は獄死、池田屋は営業停止となった。その後、縁者らにより三条木屋町付近で同じ屋号で営業していたが、やがて廃業。戦後、別の経営者が旅館を経営後、ファストフード店の入るテナントビルやパチンコ店などになる。2008年からは空きビル。 09年居酒屋チェーン「チムニー」(東京都)が「はなの舞 池田屋店」として営業。池田屋の名前が復活する。」とあった。動乱期の商いは、その志も半端なものではなかったのだと知る。
 その南に「坂本龍馬寓居之跡」碑がある。「酢屋」という木工芸店で二階は「ギャラリー龍馬」として、龍馬が隠れ住んだ二階の部屋を再現し、屋根裏から出てきた龍馬の写真や手紙、海援隊日誌等を展示している。海援隊京都本部をこの家に置いたというから、酢屋嘉兵衛6代当主は維新の活動を理解し、覚悟を持って援助を注いだのだろう。酢屋は江戸時代から営む木材業の屋号で、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたという。現在は本業を別なところに移し、現10代当主まで290年間木材業を営んでいるとう。酢屋の向かいには派手な「ももじろう」の居酒屋の看板が上がっている。木屋町の繁華なエリアは入れ替わり立ち替わり持ち主を変え、姿を変えているのだろう。酢屋家の縁者とおもわれるスタッフの方に、お茶をご馳走になりながらとうかがうと、公的支援はなくこのギャラリーは、個人で維持しているという。地価の高騰はギャラリー保存を圧迫すること、今の龍馬の流行以前から保存してきたこと等を話して下さった。
 四条に向かう。木屋通と先斗町を路地が縫う。飛び石を配した路地、緑の優しい路地、生活感のある路地。様々な表情に京都人の洒落っ気が伝わる。
 龍馬も、武市も、弥太郎も歩いたのだろうか。NHK龍馬伝」のシーンを思い出した。新撰組に追われる岡田以蔵を庇いながら「以蔵、逃げやあ」と龍馬が叫ぶ。ふと板塀の路地裏で四次元の世界に誘い込まれるような思いにとらわれた。
(2317字)


参考資料
「舟運都市 水辺からの都市再生」 編者:三浦裕二 陣内秀信 吉川勝秀
「京都高瀬川 角倉了以・素顔の遺産」 著者:石田孝喜
ウィキペディア
ブログ: http://hakubotan0511.blog.shinobi.
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