祈りと民俗芸能---じゃんがら念仏踊り

【2010年度 東北地域学】

祈りと民俗芸能---じゃんがら念仏踊り 日本画コース 服部澄子



 祈りと民俗芸能を自分の住む地で考えるならば「じゃんがら念仏踊り」がある。現在いわき市内においてみられる形態を示し、資料をもとにその歴史と「じゃんがら念仏踊り」のもつ意味を考えてみる。
 初めてじゃんがら念仏踊りに接した時、その騒々しい太鼓と鉦の連打や激しい動きの踊りに盂蘭盆の行事であることの関連性を感じることが難しかったが、じゃんがら踊りの行われている庭に向けて置かれた遺影とそこに畏って列んで座る一族の人たちを見て、念仏踊りに違いないと納得したことを思い出す。現在、じゃんがらを踊る団体は100を越える。名称は「じゃんがら念仏踊り」であるが、地区の人びとは「じゃんがら」あるいは「念仏」と呼ぶ。

 じゃんがら念仏踊りの行われる時期と場所、形態については、盂蘭盆の前後数日にわたり行われる。主に新しい仏の供養としてその家を訪れて踊る。新盆の家で踊る前にじゃんがら念仏踊りの集団が所属する地域の寺に集まり、そこで踊った後新盆の家々をまわるのが一般的である。じゃんがら念仏踊りの組織はその集落の青年団などが組織していて、十五歳から三十五歳位までの男性が中心である。服装は浴衣に黒帯を締め、両たすきで背で蝶結びにする。頭には豆絞りの手拭いで前鉢巻き、白足袋に麻裏草履をはく。楽器は締太鼓と鉦(資1)の二種である。締太鼓の胴はけやきのくり抜きで直径、胴長ともに31センチメートルから33センチメートル程で、南無阿弥陀仏と染め抜いた布を巻きつけ帯から下に横吊りにする。バチは先端にふくらみのあるもので白毛をつけてある。両手に持ち左右の面を打つ。鉦は直径十五センチメートル前後の伏鉦で、踊る時は木枠に吊して首から下げ左手でささえて右手のつちで横打する。じゃんがら念仏踊りの一行は寺から出発する(資2)。提灯を持ったリーダーを先頭に太鼓三名、鉦十名前後の順に並び、道中囃子(資3)を奏しながら新盆の家に向う。曲は道中流しまたは流し太鼓と呼ばれて太鼓、鉦が同じリズムでたたくのである。新盆の家に着くと仏壇に向って二列にならびリーダーが焼香する。その後道中囃子を奏して太鼓を囲むように鉦の人たちが円陣をつくる。はじめに念仏をする(資4)。太鼓のリズムにあわせ歌いながら手踊りする。この時新盆の家の人が一緒に踊ることもある。左まわりに回りながら両手を左、右と交互に振りあげる動作をくり返し最後に中央で手を打つ。念仏の歌を三回から五回くり返したところで急に激しく太鼓が打たれ、テンポを早めてぶっつけといわれる踊りになる。歌はやめて、鉦を激しく打つ。太鼓は右手打ちのリズムを主にして左手を高く振りかざし複雑なリズムを打つ(資5)。足どりを後ろに二拍で一歩下がり右まわりになる。止め太鼓(資6)で打ち止める。終わると二列に並びリーダーが挨拶して道中囃子を鳴らしながら次の家へ向う。新盆の家での踊りは主に庭で行われるが、仏間で踊ることもある。

 じゃんがら念仏踊りがいつ頃から始められたかは不明であるが由来については『磐城小川江筋沿革史』に見ることができる。小川江筋の開削者である澤村勘兵衛勝為の一周忌で農民が「じゃんがら念仏踊り」を踊ったのが始まりとされる。澤村勘兵衛勝為は慶長十八年(1613年)千葉県君津郡佐貫町で生れ十五歳の時、平字才槌小路に移ってきたと言われている。勘兵衛は兄の甚五衛門と共に平藩主内藤忠興公に仕えた。寛永十年(1634年)郡奉行に任ぜられた。藩主の命令で、水に恵まれず干ばつに苦しむ農民のために小川江筋を三年三ヶ月かけて開削した。難工事のうえに、大量の蛇が現れそれを恐れて工事を放棄する人が出てきたので、勘兵衛は蛇塚を築き利安寺という寺を建て供養し工事を完成することができたという。しかしその寺を建てたということが勘兵衛の功績をねたんだ者の企みにより明暦元年(1655年)七月、切腹をさせられた。その霊をなぐさめるための踊りがじゃんがら念仏踊りの起源といわれている。その元となったのが江戸時代初期の「泡斉念仏踊り」であるとされる。泡斉という常陸の国の僧が寺院修理のために江戸に行く途中、花笠をかぶり太鼓を肩にかけ鉦を手にして念仏をとなえながら歩いたのを泡斉念仏踊りといい、そこにいわきの民謡を取り込んだ念仏踊りがじゃんがら念仏踊りと言われる。明治時代に大須賀筠(竹冠に均)軒が書いた『歳時民俗記』はその頃のじゃんがら念仏踊りについて記したものである。その中の一節の「ぢゃんがら念仏トハ、即念佛躍ニテ、男女環列、鉦ヲ敲キ鼓ヲ撃ツ」は、ぢゃんがら念佛とは念仏おどりのひとつで、男女が列をつくったり輪になったり鉦を敲いたり太鼓を敲いたりするものであると記してあるのである。また明治六年一月に当時の磐州が出したぢゃんがら禁令がある。「磐城国ノ風俗、旧来念仏躍ノ相唱へ、夏秋ノ際、仏名ヲ称へ、太鼓ヲ打、男女打群レ、夜ヲ侵シテ遊行シ、中ニハ如何ノ醜態有ノ哉ノ由、文明ノ今日有間敷、弊習ニ付、管内一般本年ヨリ、右念仏躍禁心申付候条、少年児女ニ至ル迄、兼テ相違置可申事」というのがある。男女が一緒に踊るじゃんがらを禁止するという意である。また、この文から当時は男女が群れをなして夜遅くまでまた夜の間中じゃんがらを楽しんでいたことがわかる。その行為が禁令を出さなくては成らない程盛んであったことがうかがえる。当時は子どもたちもじゃんがらに参加していたこともわかる。現在のじゃんがら念仏踊りは新盆の家をまわって踊るだけのものであるが、江戸時代から明治の禁止令が出るまでのじゃんがら念仏踊りは老若男女入り交ってのしかも夜中まで踊るものであった。先出の『歳時民俗記』のなかに「男ニシテ女化粧スル者アリ。女ニシテ男化粧スル者アリ。或は裸體ニシテ、犢鼻褌ヲ尾垂シ、其端ヲ後者ノ犢鼻ニ結ヒ、後者モ亦*(巾偏に昆)端ヲ尾垂スルアリ」とある。じゃんがらを踊っていた男女は男粧や女粧したり、褌姿でその褌の端を後の人の褌に結びつけておどったとある。念仏というより性のおおらかな行動にもみえるのである。明治二十八年再びじゃんがら念仏踊りが踊られるようになったが、男性のみの踊りになったということである。

 一九七九年時にじゃんがら念仏踊りが行われている地域は地図(資7)に示した分布であるが、一九八九年の調査報告書によれば百六ヶ所で行われている。しかし二〇一〇年の現在、踊り手に支払われる手当てが一人一万円という相場になっており、新盆の家の出費が負担になる為じゃんがら念仏踊りを招聘しなくなりつつあるということである。踊り方においては経年による変化が各地でみられ、鉦切りの踊りひとつとってみてもひざを高く上げてのごつごつした感じの動きから、擦り足のなめらかな動作に変化しているなどみられるとのことである。また、女性が加わっている団体もあり社会的な側面での影響変化も考えられるのである。分布図や調査報告書にようれば北限は楢葉町、南限は北茨城市でありじゃんがら念仏踊りは平地区をちゅうしんとした農村部に分布が集中しており海に接した小名浜地区には全く存在していないのである。新盆のためだけのじゃんがら念仏踊りなのだろうかという疑問が出る。地区によっての違いはあるが前歌と後歌にはさまれる歌をみると、

 おどる おどるのは 仏の供養
 田ノ草取るのは 稲のため
 盆でば米の飯 おつけでは茄子汁
 十六ささげの よごしはどォだハ
 閼伽井山嶽から 七浜見ィれば
 出船入船 大漁船
 誰も出さなきゃ わし出しまァしょか
 出さぬ船には 乗られない

また、

 米のなる木で わらじを作りゃ
 踏めば小判の あとがつく
 今年しゃ豊年 穂に穂が咲いて
 道の小草にゃ 米がなる

など、歌にうたい込まれている内容は、仏の供養や盂蘭盆に関する他に五穀豊穣や大漁などの祈願に関するものがある。春から夏にかけては夏に収穫する作物の発芽生成期である。太平洋に面したいわき地方はヤマセという冷い風と一日中霧に包まれた太陽の出ない日が続き作物が生育しない気候が続く地である。また旧暦の盆の頃はいわき地方では最も気温の高い時期でじゃんがら念仏踊り行われる地域は農村地帯で、じゃんがら太鼓と鉦で大音響を発するのは田畑に害虫が発生する時期と重なる。作物の生成をおびやかす種々の御霊を鎮める意味をもつ虫送りや雨乞いなどとむすびついていないだろうか。そう考えるなら漁業地域である小名浜地区にじゃんがら念仏踊りが存在しない理由も理解できるのではないだろうか。



参考資料
いわき市史第二巻』いわき市、一九七二年
いわき市史第七巻』いわき市、一九七二年
『いわきのじゃんがら・念仏調査報告書』いわき市教育委員会、一九七九年
夏井芳徳『じゃんがらの夏』神谷漣文庫、一九九一年
『磐城誌料・歳時民俗記』いわき市、二〇〇三年
『いわき伝統芸能フェスティバルの記録、じゃんがらのひろがり、念仏踊りの系譜』いわき市教育委員会、二〇〇一年
『磐城小川江筋沿革史』磐城小川江筋沿革史編纂委員会、澤村神社、発行年不明
映像『じゃんがら念仏踊りいわき市暮らしの伝承郷、二〇一〇年






*資料は後日追加します (編集者)