『ヘルダーリン詩集』 --- 歴史遺産コース 白神舞

【2012年度 詩と音楽への案内】

ヘルダーリン詩集』 --- 歴史遺産コース 白神舞



(1)はじめに
 ここで取り上げるのは、『ヘルダーリン詩集』の中の一篇「自然へ」である。一読すれば、喜びと喪失の嘆きという要素は理解できる。しかし、何度も読み返すうちに、この詩篇の内容を自分が表面的にしか理解できていないことに気付く。表面的なストーリーは理解できても、細部に関しては、読む度に発見があり、疑問が増え、解釈も変化していく。
 ここでは「あなた」とは誰か(何か)、ということと、「亡びた」のは何か、ということを中心に考察を進める。特にこの二点が、この詩篇の内容を理解する上で重要なポイントだと思われるからである。

(2)「あなた」とは何か
 まず疑問に思うのは「あなた」とは誰か、ということである。もちろん、タイトルが「自然へ」なのだから、「あなた」とは「自然」であると推測できるのだが、では、ここでいう「自然」とは一体何か。はたして、どういう存在に向けて「あなた」と呼びかけているのか。ヘルダーリンの言う「自然」とは、どういう存在、どういう概念なのか。
 訳者の川村二郎氏は、ヘルダーリンにとって「自然」は重要な要素だが、その定義は一義的ではないとする。もとより、「自然」の概念を明確に定義するのは難しい。「自然へ」における「自然」は、「あなた」と呼びかけられている点から、擬人化されていることは分かるが、「あなた」「自然」がどういうものなのかが、段落が進むごとに、読み込むごとに、ぼやけていく。
 「信仰篤く」「春を神のメロディーと呼び」「示現した」という言葉から、「自然」とは「神」である、と解釈したが、「神」もまた、定義が難しい。「自然」と「神」と言えば、日本古来の自然観が思い浮かぶ。自然界のありとあらゆるものに神性を見出し、敬う。仏教伝来後に擬人化されたため、様々な「神」が創造され個性を付与されることとなったが、もともとは、ずっと曖昧な「神々」だった。ヘルダーリンの自然観が日本古来の自然観と近いものだったのかどうかは分からないが、「自然へ」における「自然」には、日本古来の「神々」という観念がふさわしいように思える。
 しかし、「その時あなたは示現した」という表現で行き詰ってしまう。この部分から、「あなた」は、正確には「自然」ではなく「自然の魂」であると分かる。では、「自然の魂」とは一体何か。単に「自然」と戯れているだけでは「示現」せず、「心を感じる時」「見出した時」「揺れた時」に「金色の日々」に「抱きしめて」もらうことができ、「沈みこんできた時」「閉じこめた時」「めぐり飛んだ時」に「示現」するのが「自然の魂」である。これらの条件から、「自然」の中に何かを感じている状態である、と分かる。ただぼんやりと「自然」の前にいるのではなく、「自然」の起こす様々な現象に対して、何かを感じて何かを見出している状態において、「自然の魂」は「示現」する。その何かとは、やはり神性だろうか。より正確に言えば、「神の愛」といったものかもしれない。神の愛に包まれていることを実感できているから、「美の光」「美しい充溢の世界」を味わい、「無限の腕」に抱かれ、「愛のこよない果実」を「心行くまま」に楽しむことができる。清らかで美しく、鋭敏な感性を持つ少年の姿が思い浮かぶ。
 つまり、「自然」それ自体は、自分をとりまく自然界のあらゆる事象、といった意味だが、その中に、「神のメロディー」、「金色」の光、神の愛、そういった美しく暖かいものを見出した時に「自然」はただの「自然」ではなく「自然の魂」となる。ここでいう「神」は、どこか一神教の神をイメージさせるが、「父神の殿堂」という言葉から、ギリシア神話の神々を想定しても良いかもしれない。

(3)何が「亡びた」のか
 中盤、「自然の魂」の「示現」に「酔いかつ涙し」、「美しい充溢の世界」へ「溶け入った」喜びを歌うが、「生の乏しさを私から隠し」「わが手の及ばぬもの」といったあたりに、翳りを予感させる。そして「今は亡びた」に至る。「亡びた」のは、「私をはぐくみ育てたもの」「若やかな世界」であり、「若い日の金色の夢」である。
 最初は、「自然の魂」を感じられなくなった自分、つまり神の愛を実感できなくなった自分、その嘆き、といった解釈をしたのだが、「春はわが憂いになお/かつてと同じくやさしい慰めの歌をうたう。」とあることから、「今」も、「春」に「神のメロディー」を感じているのではないか、と考えた。「神のメロディー」を感じられるなら、「自然の魂」も感じられるのではないか。にもかかわらず、明らかに喪失を嘆いていることが伝わってくる。では、何が「亡びた」のか。
 「私をはぐくみ育てたもの」「若やかな世界」「若い日の金色の夢」は「あどけない金色の夢」「金色の日々」と同義だろう。それが示すのは、「歓喜の霊」「自然の魂」の「無限の腕」に抱かれた「美しい充溢の世界」、そこでは「時代の中の孤独」は消えて、「すべての存在とともに」、「大洋」に溶け込むかのような一体感が得られる。それは「生の朝」であり「心の春」であり、「喜びの日々」だった。これはどういう状態なのか。
 「時代の中の孤独」の「時代」とは、何か大きなうねりのようなもの、個人の領域をはるかに越えた悠久の時間の流れ、といった意味なのではないか。その中で感じる「孤独」には、自分という存在の小ささ、無力感、不安などが含まれるだろう。「はるかな裸の荒野」「雲の夜が私を閉じこめた」「長いさすらい」から推察できる。その「孤独」が「歓喜」に変わるのは、「自然の魂」との一体感と同時に、「すべての存在」との一体感を得たからではないか。一体感を得るには、ある種、無我の境地に至ることが求められるだろう。自分が自分が、という状態では、「すべての存在とともに」あることは難しい。我が強い状態では「孤独」も強く感じられるが、自分は「大洋」の一部分なのだ、「自然」の一部分なのだ、と思えたら「孤独」はなくなるだろう。
 そうした境地は、「わが手の及ばぬもの」だったのだろうか。前半では「金色の日々」だったのが、後半は「金色の夢」に変わっている。そうした境地は長続きしない「夢」のようなものだった、という嘆きを感じる。「自然」の中に神の愛を感じられなくなった嘆きというよりも、一体化できなくなった嘆きと考えた方が的確なのではないか。
 なぜ「亡びた」のか、具体的に知らされることはないが、成長していくに従い、我が強くなり、「大洋」の中に溶け込むことは難しくなったからかもしれない。ヒントになるのは「生の乏しさ」だろうか。「生の乏しさ」とは、現実の厳しさ、人間の持つ負の側面、成長していくに従って否応なく出合うあらゆる困難、といった解釈が可能だろう。「若い日の金色の夢」とは、「自然の魂」の「無限の腕」に抱かれ、「美しい充溢の世界」に溶け込んでいることができた「金色の日々」であると同時に、「若い日」に抱いていた人生に対する希望や憧れという意味での「金色の夢」でもあるのではないか。
 そして、「故郷」は遠くにある。「亡びた」のではなく、遠ざかった。「故郷」とは、「金色の夢」を見ていられた頃、「金色の日々」を指すと考えたが、「故郷」は亡びていないから、これは違う。「故郷」とは、「美しい充溢の世界」を指すのではないだろうか。「すべての存在とともに」、「無限の腕」に抱かれていられる場所が「故郷」であり、それ自体は亡びていない。自分が「生の乏しさ」を知ったことやその他の要因から、もう行くことができないと思い込んでいる場所、今は「その夢」を見ることしかできない場所、それが「故郷」なのではないか。

(4)おわりに
 現時点で、「自然へ」は以上のように解釈できた。紙幅の都合もあり、特に重要と考えられるポイントに限定せざるを得ず、この奥深い詩篇の理解にはまだまだ不十分と感じている。例えば「我らが」という表現や、前半部分の細部、あるいは「心のよき芽」など、考察すべきポイントはまだいくらでもあり、今後も繰り返し読み込んでいきたい。おそらく理解はさらに変化していくだろう。ひょっとしたら現時点での理解の浅さに失望することがあるかもしれない。しかしそれこそが、「時間芸術」の持つ魅力である。(本文3316字)


参考文献
川村二郎訳『ヘルダーリン詩集』岩波文庫、2002年