春と修羅「小岩井農場」を片手に 陶芸コース 陶くみ枝

【2010年度 環境文化論(花巻)】 

スクーリングレポート:《春と修羅小岩井農場」を片手に》 陶芸コース 陶くみ枝





 田沢湖線小岩井駅にバスは停まった。梅雨明け前の湿った空気に日差しがカンカン照りつける。バスを降りると汗が噴き出す。賢治が農場を歩いた5月の季節がうらやましい。昔懐かしい木造駅舎は大正10年の開業当時の姿を残している。構内は閑散として駅員の姿もみえない。時刻表を見ると平日の上りは一日12本、下りは13本だ。昼前は3時間に1本しかない。「小岩井農場」の執筆は大正11年とある。当時の時刻表はわからないが、下りは8:00か10:01しかないので、8時台だったろう。などと勝手な想像を膨らます。

  汽車からおりたひとたちは さつきたくさんあつたのだが

乗降客は10人もいたのだろうか。

 図書館に他館からの貸し出しを依頼していた「賢治歩行詩考 岡澤敏男著」が届く。筆者は農場に残された当時のダイヤを確認した上で10時54分小岩井着の汽車と推定しており、想像よりだいぶ遅いスタートであったことが確認できた。賢治26歳、前年に花巻農学校教諭に就任しており、何か所用があったのであろうか。この年11月に妹トシを見送っており、トシの容態が足止めしたのであろうか。徒歩での行程を考えると始発の6時台の列車を選択しなかった理由が気にかかる。

 ずいぶんすばやく汽車からおりた

 スタートが遅れて、気が急いていたのだと解釈が繋がる。馬車に乗ろうかと迷ったのは予定していた始発の盛岡発午前6時10分の列車に乗り損なったからではないか。1922年に橋場軽便線として開通した当時は一日4往復であったという。一便遅れると4時間待たなければならないのだ。農場に向かい歩きはじめた賢治のセカセカした姿が脳裏に浮かぶ。

 火山灰のみちの分だけ行つたのだ

火山灰の道は、あっという間に網張街道にぶつかった。農場本部までの道のりで、賢治は「鳥の学校にきたようだ」と鳥の声に関心を向けている。私たちが歩いた時は、地域の有線放送が絶え間なく連絡事項を流していた。それでもアスファルトの道沿いの大きな木の下は、鳥の糞があちこちに散らばり、その見えない影の痕跡を残していた。

 冬にはここの凍った池で
 こどもらがひどくわらった

子どもたちがスケートをしていたという。その池を覗いた。雑草が茂り顧みられなくなった池は、睡蓮の葉と深い溢れる緑の水にひっそりとしていた。傍らの桜の木にはサクランボが赤い実をつけている。「黒い実は甘いよ」と教えられ、口に含むと、酸っぱく青臭い香が広がった。

 心象スケッチと言われる「春と修羅」は、どこまでが現実の風景で、何処からが心象で、どこまでが幻想なのか、読み手は惑う。賢治の心の動きが、ああよくわかるとか、わからないなりに惹かれる、というように受けとれず難解な詩編であった。けれど賢治が降車した時間を確認したことで、スタート時の賢治の心に向かって想像を膨らませることができた。今回の講座は、パート四までの道を歩き、小岩井の自然にふれ、賢治の感受した農場の風を共有しようとの試みであった。しかしこの強すぎる日差しのなかでは不可能だ。

雪解けの、あをじろい春に、ひとりで歩いてみたいと思った。
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