【2007年度「地域学」 第1課題レポート】 消えた地名の不思議 --- 校歌を掘り起こす

【「地域学」2007年 第一課題レポート】

「消えた地名の不思議 --- 校歌を掘り起こす」 芸術学科芸術学コース 吉田 マナ


はじめに

私の出身地域の小学校の校歌を分析し、現代の生活における故郷について考える。
まず校歌を紹介し、背景の歴史に触れ、歌詞の読解を試みる。次に、中学校の校歌と比較する。最後に、現在の私の受け取り方をもって再度、小学校の校歌をみる。

一、南の沢小学校 校歌(加藤昌千代作詞、一九七七年)

藻岩(もいわ)の峰に 雲青く
希望広がる 南の沢に
身体を鍛え 知恵磨き
広い世界に 生きようよ

蝦夷(えぞ)山桜(やまざくら)の 並木道
花咲き薫る 南の沢に
肩組み交わし 励み合い
心豊かに 伸びようよ

吹雪嵐に 耐え抜いて
荒野(あれの)拓いた 南の沢に
鍬の教えを 受け継いで
輝く未来を 拓こうよ

私の母校は、札幌市立南の沢小学校である。開校は一九七七年、南の沢が新興住宅地として急変し始めたときだった。隣の地域の藻岩小学校に約三十分かけて通っていたのを、校舎ができて引っ越した。私が転入したのは翌一九七八年。三年生だった。卒業は五周年。今、振り返って驚いた。今年三十周年という。それほど時が経ったのが、全く信じられなかった。

●地域の歴史
この地一帯は昭和一六(一九四一)年まで、八垂別(ハッタリベツ)=ハッタラ(渕)・ペツ(沢)というアイヌ名だった。明治五(一八七二)年、開拓史が漢字を宛て和名に変えている。屯田兵に開拓地として払い下げ、だが耕地には適さない山間の沢地だったので、原生林を伐採し、農地、牧場、果樹園になり、また採石と発電所敷設に利用された。

昭和一六(一九四一)年、地名を藻岩に変え、川沿町・北の沢・中の沢・南沢・白川に細分した。昭和四七(一九七二)年、札幌オリンピック政令指定都市施行。満十年を機に昭和五七(一九八二)年、区制が施行。同年、南の沢小学校が開校する。

●校歌を読み解く
校歌の第一印象は、なんというかカラッとしている。過去や郷土の誇りといった鬱陶しさが無い。未来だけが視野のようだ。柔らかい明るいメロディーが親しみを湧かせる。
初めは地理的特色に頷く。
一番冒頭は、いつも目にして暮らす向かいの山、札幌の展望台的存在である藻岩山。青や緑を思わせ、季節は夏か。
二番は春の桜色。「蝦夷山桜の並木道」は、校舎前の風景だ。
三番は冬。
約半年、雪の世界である。粉雪は乾いて軽く、大きな結晶の姿で手袋に落ちたりする。マイナス一〇度以下になると、大気はピリピリと痛く、耳や指先が千切れそうに凍える。外に一夜いれば死ぬ。だが雪の白銀は、青の陰影になる。夕陽で一面、金やばら色に染まり、深い紫へと変わっていく。鼻腔の奥がツンと痛い、静謐の匂いがある。命を奪う美しさである。
「吹雪嵐」に私達は耐え、先人は更に耐え、―開墾の重労働に砕かれて死んだ人、病に倒れて部落を捨てざるを得なかった人、なけなしの資金を使い果たしその上に借金を重ねて夜逃げをした人、稀には荒地を高値で売り飛ばして内地に帰郷した人、(川淵初江・編『さっぽろ藻岩郷土史 八垂別』一九八二年、藻岩開基百十年記念事業協賛会、二一四ページ)多くは定住に至らなかったので「抜いて」と言えるのかどうか。ともかく、古参の子らは開拓者の末裔で、祖父は屯田兵と言う子もいた。
「鍬の教え」、酷寒の原生林に鍬ひとつで向かった。しかし、どう「受け継」げというのだろう。
冒頭に藻岩がある。古称・八垂別はどこにもない。この名は現在、墓地と、滝(というが小川)に留まるのみ。元は藻岩山麓周辺と、八本の沢と渕、それらが流れ込む豊平川まで、広大な一帯を指した。それが形もなく、逆に「南の沢」は繰り返される。
「桜」は国花である。自生種ではあるものの、整備したから並木がある。「肩を組む」は「みんなで力を合わせる」(新国語辞典、一九九一年、清水書院)。誰と協調せよというのか。子供、住民、アイヌと和人。
「吹雪嵐に耐え抜いて」。幕末以降の動乱から、生き長らえて今この地に至るのだから、凄まじい。
けれども、本当に「荒野」だったろうか。
―開基当時の藻岩は、千古の秘境にも似た巨木鬱蒼たる密林で、土地の起伏も険しく、潅木が至るところに密生して展望はおろか昼なお暗く、西南の山麓は熊や狼の生息地と言われ(略)白昼でも鹿が群をなして横行し、狐や狸も生息して(略)
(引用、同)
豊平川は水量が豊かであらゆる種類の魚がいました。秋口から十二月上旬にかけて鮭が大量に上って、四・五・八号沢の川にもたくさん来たそうです。
(北の沢小学校 HP「北の沢今昔」 http://www.kitanosawa-e.sapporo-c.ed.jp/konnjyaku.htm)
 拓いて、良かったのだろうか。

二、南が丘中学校 校歌

それから六年後に南が丘中学校が開校した。校歌を比較したい。
(上元 芳男 作詞・作曲、一九八三年)

光満つ 南が丘
高らかに 鐘の音は呼ぶ
友よ
熱い友情を込めて
ここに三年(みとせ)の縁(えにし)を結ぼう

故郷(ふるさと)に春は訪れ
辛夷(こぶし)香り大地は息吹く
目覚ましく伸びゆく街に
先人の汗を偲べば
若人の胸は弾むよ

学び舎に秋は深まり
渡り鳥の影さす窓辺
師の教え耳傾けて
厳しくも心に刻む
いのちの尊さ 平和への道

のぞみ満つ南が丘
山脈(やまなみ)の彼方は遥か
友よ
思索の翼を伸べて
翔ぼう 理想の大空へと

ああ 限りなく

南が丘は校名で、地名も呼称も無い。来し方の肯定と取れる語は「伸びゆく街」「先人の汗」。鐘には頭をひねった。が、象徴的なものがあった。時計台である。明治政府により作られた、米国式の、旧札幌農学校兵学科の演舞場である。
花は、辛夷である。雪解けの頃真っ先に咲くのは、白く大きなキタコブシだ。迎春花とまでいわれている。
「渡り鳥の影」は流動の民の遺影に思えて来る。先人も、私達も、情勢に従って現れた急激な流動人口に他ならない。そしてアイヌは遊動民だった。
「山脈の彼方は遥か」。これには実感がある。札幌からは、快晴の日、地平の煙る彼方に鋭い雪嶺の連なりが見える。「荒れ野」と片付けるより、かなりの進歩ではないか。
そして両方の校歌とも、未来だけに向かっている。郷愁はない。北海道はまだ開基一三九年、やっと四代目なのだ。生活を整えるところまで来たばかりなのである。
また、意外なことに気付いた。メロディーの重要性である。偶然かどうか、中学の方は、地域主体の詞に対し日本的軍歌調メロディーである。双方のメッセージを拮抗させて、校歌としてパスしたのだろうか。かたや小学校側は、親しみの湧く日本的メロディーと同様、詞も可愛く、しかし読み込むほどに巧妙だ。
愛着はメロディーで決まる。中学校の校歌は、私達に不評だった。反抗期もあったからか皆ふてくされ、無理やり覚えさせられたのを覚えている。対照的に小学時代は、誰もが何とはなしに嬉しげだった。私は未だに桜も、あの校歌も好きだと感じる。それら自体は単に愛らしい。どんな意図を被せられていようとも。

まとめ --- 枠の中の実人生

校歌だから、その意向を果たすのが使命である。だが、枠の中で実際に生きるのは人だ。作者は、本当は何を思っていたのだろう。
小学校校歌の作詞者・加藤昌千代さんは、初代校長である。創立から関わり、政治活動もしていたのか、私は確か級友から「選挙に出た」と聞いた。資料を探し切れず記憶を辿るしかないが、たまに校内で見かけると、必ず子供らと遊んでいた。背広の上着を脱ぎ、手拭いを腰に、汗だくの顔を洗ったり、そこらをちょっと綺麗にしたりする。誰もが、校長先生と相撲をとった、鬼ごっこをしたと顔を輝かせた。
五周年の式典に、元校長は転勤先から顔を見せた。校歌を一語ずつ、長いことかかって解説したのを覚えている。
私が校歌について考え始めて、思い出したのはこの三番目だった。当時は最も馴染みが薄かったのに、不思議なほどこれしか出てこない。そうか、先人は、種を撒いたのか。そう合点がいった。
私に育っていた真意は、以下である。

吹雪嵐に(生れ落ちた環境に)
耐え抜いて(主体をもって生き延びて)
荒野(あれの)拓いた(未踏の世界をここまで来た)
南の沢に(私を形作っているもの)
鍬の教えを(来し方とそのすべての命を)
受け継いで(犬死にさせないで)
輝く未来を 拓こうよ



◎参考文献
藻岩開基百十年記念編集委員会/編『南区のあゆみ ―区制十周年記念―』札幌市南区役所総務部総務課、1982年
『みなみのさわ 開校五周年記念誌』札幌市立南の沢小学校、1981年
南の沢郷土史編集委員『拓土に生きる 南の沢開拓一〇〇年の歴史をふりかえる』南沢農業実行組合、1996年
北海道史研究協議会/編『北海道の歴史と文化 その視点と展開』北海道出版企画センター、2006年
田端宏・桑原真人・船津功・関口明『北海道の歴史』山川出版社、2000年
北海タイムス社/編『戦後の北海道/道政編』北海タイムス社、1982年
北海タイムス社/編『戦後の北海道/産業経済編』北海タイムス社、1983年
宮内玲子『シリーズ北海道の女』北海タイムス社、1987年