【2009年度東北地域学第2課題】故郷の備前焼と津軽金山焼について

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自宅で普段使いしている津軽金山焼きの湯のみと湯冷まし

【2009年度東北地域学第2課題】

故郷の備前焼津軽金山焼について

 宮田 春美 通信教育部芸術学部芸術学科



はじめに

故郷の「備前焼」の器に似た食器を目にしたのは、5年前の青森県五所川原市エルムの街・そば店「梵珠庵」での事であった。手に持ち重さを手ばかりで計ると、以外に軽い。それは「津軽金山焼」であった。
今春・五所川原市盛山にある「津軽金山焼」の窯元を尋ねる。「備前焼」と同じような土と炎の芸術品の須恵器であると知る。その調査をしながら故郷の備前焼津軽金山焼の共通項を見出し、その過程を探り、日本の東/西の須恵器の歴史を論じるとともに、現在活躍する2人の作家との聞き取り調査をする。

(1)須恵器
軟質の土器と違い、高温状態の窯で焼かれた硬質の焼き物で、その技術は朝鮮半島から伝来されたものとされた。1,200度以上の高温で焼き締めた無釉の焼き物を須恵器という。釉薬を使用する焼き物が多い中で、釉薬を使わず原始時代の焼き物の陶法を踏襲した、千古の歴史を有する世界最古の焼き物である。

(2)須恵器の歴史
古墳時代にろくろと窯、陶工が朝鮮より渡来し、高温で焼く、くすんで頑丈な「須恵器」が日本に誕生した。奈良平安時代には全国に2、000以上の窯があり、その頃の新羅・唐などの影響を受けた赤い須恵器が作り出された。古墳時代から古代にかけての須恵器は、日本全国各地の遺跡から出土している。

(3)須恵器を焼く釜
須恵器を焼く窯は斜面に作られた登釜(註)で、斜面下側に炊口、中ほどに作品を置く焼成部、上側が煙だしの構造になっており、燃料を燃やすことによって生じた高温の空気によって、作品に直接火が当たること無く、還元焼成する。(註)
登釜は窯内部の温度を上げやすく、硬質の作品を1度に多く焼くことが出来る。

(3)「津軽金山焼
日本の六古窯と呼ばれる瀬戸焼常滑焼、越前焼信楽焼丹波焼備前焼はバブル期に大量生産したことなどから多くの産地では今、粘土が不足している。しかし津軽金山焼きでは金山大ため池(註)から彩採できるため心配も無い。窯焚きの燃料となる赤松も永年にわたり、無謀に切り続けたことや、マツクイムシの被害が拡大したことなどから多くの産地では非常に高値で、手に入りにくいが、焼き物産地となる上で欠かせない良質な土と薪、その両方が金山にはある。
津軽金山焼」窯元の松宮亮二さんは五所川原・西北中央病院の介護師だった頃、精神科の作業療法として陶芸を取り入れ、患者に指導するため独学で陶芸を学び、のめりこんだという。彼の作品群はおおらかで重厚だ。

(4)故郷の「備前焼
約800年前の鎌倉時代に、岡山県備前市伊部の西にある熊山集辺で焼き物が作られていたが交通の便や経済の発展に伴い山を下りて1、395年頃(応永2年)伊部を中心に陶工の集落が出来た。
現在窯の数は約150窯。陶工は約200人と推定される。陶工や女工たちによる大量生産される窯元と自分の窯を持ち土つくりから製造・窯焚き・販売までも自分の手でやり、自作の銘を必ず作品に刻む作家達がいる。窯元に勤め永年陶技を習得し、1人前になってから独立して築窯、作家となる場合が多い。
備前焼」は最高温度1、320度で1週間以上も焼き続ける原土の含有元素と表面に付着した松の灰が化合して自然生成を現出する。今日では桟切(さんぎり)焼き・ゴマ焼き・ヒダスキ焼き・青焼きなど人工的に現出するように陶工たちが工夫を重ねている。

(5)「備前焼」と「津軽金山焼」の比較
全国各地の新聞社・百貨店での「備前焼展示即売会」を1,000回近く開催した、「備前焼」の知名度は高く、窯元や作家の数は多い。桃山備前焼を再現・伝承し、文化勲章を頂いた作家を作りあげた備前は、故郷が誇る芸術品であり、日常の雑器としても有名だ。「備前すり鉢投げても割れぬ。夫婦喧嘩はそれでせよ」「備前のとっくりは酒の質が上げる」「水差しは備前に限る」「備前の花器は夏場も水が腐れない」などの口伝を子供の頃、大人達から聞いた。これは高温状態の窯で焼かれた硬質の焼き物への賛辞である。
津軽金山焼」の歴史は1985年(昭和60年)に1.5立方㍍登窯が松宮亮二により築窯され始まった。2年後には8立方㍍の備前式登り窯、その4年後には12立方㍍の金山式大釜、又、2年後に4立方㍍金山式穴窯、1997年日本最北の須恵器登窯「鞠ノ沢窯」を復元、1999年には4室8立方㍍の小窯を築く。短期間の間に次々と釜を築いていった。1998年東京ドーム「テーブルウエア・フェステバル」に初出展し、その後、毎年出展しながら「備前焼」と競っている。焼き締めファンにとっては「備前焼」よりも手軽な価格で買いやすい「津軽金山焼」は人気で、売上高は毎年上昇していると聞く。

(6)備前市伊部下り松「正宗悟窯」
昭和29年生まれの彼に逢ったのは、私の実母(故人)が期待した備前作家であったからである。彼は焼き物の町伊部に育ち、子供の頃から陶芸家を志し、備前陶芸センターに入所、卒業とともに窯元春湖苑にて修行する。21歳の時、日本伝統工芸展に初入選、翌年伊部寺奥に築窯する。作品はヘラ使いに特徴があり、重厚な作品を焼成して愛陶家を驚かせた。「幼くして父親を失い、母の手一つで育てられたので、母親孝養のために1日でも早く1人前になりたい」という独立独歩の意思の強さを持つ大物焼きであった。(註)彼の母親と私の実母は、法華経の信者であった事から、窯開きに招待された母は、灰を拭う藁を片手に持ち、まだ熱の残る窯に入り、気に入った作品を購入しては子供達に贈与した。
又多くの友人、知人へのPRをして楽しんでいた。

(7)「津軽金山焼」きき取り調査
訪れた日は陶器祭の1週間前だったので、七種八基の窯のうち5基が焚かれ、その炎の勢いに圧倒された。小窯と呼ばれる登釜の入口では若い女性が一身に薪を焚いていた。その小窯はアーチ上に作られ焼成室が4つ連なり、8立方メートルある。湯のみなら8,000個入り、釜詰後はスタッフが1日3交代で5昼夜焚き続け、5昼夜掛けて窯内部の温度を外気と同じくらいまで下げ、窯出する。その作業は毎月2回。5連12立方メートルの大窯や穴釜などを含めると毎月4回は窯が焚かれるという。1、200度以上の熱を孕んで窯はふくらみ黒煙と炎がボウボウと火を噴く様は、地獄の窯焚きを想像させるほど迫力があった。

(8)「津軽金山焼」の後継者育成制度
弟子入りから5年以内に独立する決まりがある。「中間独立」は資金のない独立者をフオローする制度である。工房に住みながら、土などの材料費や窯の使用代を支払い、作品は売店のギャラリーで置かせてもらい販売のチャンスが作れる。

(9)「津軽金山焼」で働く人々
隣接地・イタリア料理店・パタータのストーブで焚かれる薪の匂い、パチパチと薪のはじける音。芯底から温まる薪の炎。炎は原始から人間集団の中心にあり、営みに恵を与えた。案内をしてくださった橋口常務の熱意。お茶を何度も入れ替えてくださった女性達の素朴な笑顔。備前のコレクターだった母と備前作家との逸話を熱心に聞き入ってくださった人達。新人作家の育成講座や興味のある人達へのワークショップなど、広く多くの人達を歓迎する姿勢には共感を覚えた。そこには素朴でジョッパリ根性も見える。作品や展示法などまだ洗練されない点はあるが、真剣な態度と、夢を共有する魂の一体感がそこかしこに溢れている。

(10)五所川原から世界へ
津軽五所川原の地からアジアや世界への呼びかけは次のような文である。「津軽にはかって焼き物の素晴しい歴史がありました。三内丸山から亀ヶ岡遺跡まで繋がる縄文の文化、
そして五所川原の前田野目には日本最北の須恵器の文化があります。ところが、その須恵器の文化が忽然と消えてしまってから1,000年間、焼き物の歴史が途絶えています。
この止まった歴史を、一緒に動かしませんか」というメッセージに触発され2007年に開催された「青森世界薪窯大会」には海外10ケ国から17名の陶芸家が参加したという。

おわりに

「世界にムガイッパナシ」という松宮亮二さんと共に歩む人たちには魂を爆発させるエネルギーがある。「津軽金山焼」の挑戦は今後も続くだろう。正宗悟はこう語った。「漏れるものや気に入らない作品は壊す。納得できない作品は世に出さない。」壊した陶片を踏み固めた、じゃりじゃり道を下った陶房前には、いくつもの船がありその中では粘土に水が張ってあった。陶土作りである。
火で焼かれた須恵器は年月経過につれて破片になり、片が土になる。(註)土と水と炎の芸術作品はいつか土に還り、自然と一体になる。
故郷の備前焼の伝統を守りながらも革新する正宗悟と、世界をめざし共創する松宮亮二は日本の東/西の地域で自然に生かされ、生きる人である。限りある資源を伝承者が最大限に生かし、生活者に器として利用され、数百年後には土になり自然に還る。そんな学びが出来た五所川原須恵器窯跡でした。                              (3,589字)



参考分献
佐藤史隆編 『あおもり草子』 企画集団ぷりずむ 2007年
森谷詔他編 『備前焼現代作家集』岡山観光公社  1978年
東 直子編集『サライ 1999・5』小学館  1999年
光芸出版編 『全国陶房ガイド』 光芸出版   1988年 
朝日新聞社編『藤原啓の世界展』 朝日新聞社  1985年


*重複を避けるために本文につけられた原注を、写真キャプションに統合しました。読みにくくなっていなければ幸いです。(編集者)


津軽金山焼きの窯焚き
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津軽金山焼き大ため池(津軽金山焼の粘土産出地)
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五所川原須恵器須古墳群の一つ(盗掘防止のため埋め戻された五所川原恵器窯跡の1つ 滝口から撮影)
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(2004年5月国の史跡指定を受けた五所川原須恵器窯跡群)
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楠美家住宅にて説明してくださる成田氏
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前田野目遺跡より発掘された大甕(前田野目地区に近い狼野長根公園内の「楠見家住宅」内の展示品。ほぼ1,200年前の須恵器)
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五所川原須恵器古墳群の跡地で拾った約1,000年前の須恵器の欠けら(楠見家住宅管理人の成田氏に案内された、須恵器窯跡群の1つ付近で見つけた破片。前田野目沢に沿って6窯 田の中に2窯の古代時代の須恵器窯跡が見つかった)
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自宅で普段使いしている正宗悟の備前焼皿と花器
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