観光の町の埋もれた苦渋

2009年度【環境文化論・飛騨】学生レポート

観光の町の埋もれた苦渋 (染織コース 豊崎洋子)


はじめに
建築の師が飛騨匠文化館を設計した。釘を一本も使わない伝統的な土蔵建築で作られた飛騨の匠文化館は、古川大工の技と歴史を伝える博物館である。千年以上続く飛騨の匠の木造建築技術は、木材の特性を知り尽くし、生かした木組みの巧みさは見事で、特にパズルのように組み合わされた千本格子は技の見せ場である。また、民家の軒先を支える肘木の木口に独特の装飾が彫られ、白く塗られた「雲」は、その家を建てた大工のサインのようなもので、個性的な「雲」も展示されている。
高山の伝統建造物の肘木にも多く「雲」を見る。恐らく経済豊かな施主の雇い大工として、長いつきあいだったのであろう。
しかし、伝統建造物のある町は観光地化され、どこの町の土産物も土地の個性が希薄で、そこの風土にくらしてきた光りは形(財に任せて建築された伝統建造物など)として残されるが、影は見落しがちである。
ここでは現在に至るまでの高山の「くらしの影」として遊郭について述べることにした。

1,花岡遊郭
スクーリング三日目の午前中は自主見学であった。

自主見学を単なる土産物屋廻りや、観光化された建築物の見学体験だけで、この高山の環境文化を知るには惜しい気がしたのである。この地の人にくらしの場の昔を聞き現在の町の姿を比較して見たいと考えたのである。

早朝6時半にホテルを出て観光客の多い宮川や陣屋前を避け国分寺通りを歩き始めた。
間もなく、飛騨国分寺を過ぎたころ、朝市の帰りらしいシルバーカーを押した老婦人が季節の花をのせてゆっくりと歩いていた。

「おはようございます。朝市の帰りですか?」と声をかけてみた。

92才の高齢であることを知り、私はその婦人の笑顔に亡くしたばかりの母をかさねた。介護など全く縁もなく一人暮らしだそうである。毎日朝市に出かけることが元気の源であり、馴染みの人に小分けされた野菜を分けてもらうそうである。婦人とっての朝市は我が家の台所らしい。

婦人は末広町の住人であった。この界隈に詳しく宮川の西側の本町と高山駅との間は、昭和9年の高山本線開通とともに整備された街である事を聞かされた。特に国分寺高山本線との間のエリアは新地として計画された花岡遊郭があったと言う。
婦人の指さす花岡町の路地には現在でも和風旅館や名残を残した建物が見られ、目立つ大きな空地も、かつて妓楼があったらしい。空地の一部に生命保険会社の会社と医院が建っていた。

婦人は花岡遊郭に近い銭湯に古川から嫁いで来たのである。この銭湯の午前11時頃の常連は花岡遊郭桃割れに結った娘達だったそうである。まだ幼さの残る娘達が家計を助けるために苦界に沈む姿はやりきれない思いがした。と話す。
また、遊郭では定期的に医師の診察を娘達に受けさせたり、初潮の面倒までみていたそうである。髪結いが遊郭専属で常駐していた事なども語った。

こうした話は観光ガイドにも載らず、よほど勇気をふるって土地の古老などに聞かなければ華やかな地域文化の上辺だけを知ることになるのではないかと思われた。

花岡遊郭の話は1920年―30年代の東北の山村の暮らしと重なった。当時の山村では世界恐慌のあおりで、輸出品の生糸の値が暴落、重い小作料にあえぐ農村の娘売りが急増した。村から売られてきた娘と楼主と契約覚え書きは、実際には農家の親が楼主から大金を借り、その形として娘を遊郭で働かせ、肉体と心を犠牲にした稼ぎで返済させた。親は「連帯人」本家や地主「保証人」として名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる。親思いであればあるほど、娘をがんじがらめにする契約であった。

1946年GHQは人身売買である娼妓の開放を指令したが、遊郭は1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで存在していた。花岡遊郭も例外ではなかった。

おわりに
高山の市街地は城下町を母体に近世幕府直轄の天領陣屋町として整備された。その後は町人が活躍し繁栄をもたらし、古い町並みは宮川の東側南部の三町(一之町、二之町、三之町)と北部の大新町に見られ集中しているが(いずれも国重伝建地区)、西側の本町も古くからの高山の町で近代建築洋風建築が見られる。また、三町の東には城下町時代からの寺町が配されている。

しかし、こうした繁栄の影に農村の苦渋があったことも知っておかなければならないと感じた。