【2008年度哲学b・東京】 スクーリングレポート (情報D 浅見真智子)

【2008年度哲学b・東京】

スクーリングレポート哲学b 2008 09/09~09/11

情報デザインコース 浅見真智子

今回のスクーリングで、特に印象に残った事は、『ツァラトゥストラはかく語りき』の話に出て来た『神は死んだ』という下りの事でした。

何故、『神』がいなくなってしまった、という事が私には良く判らなかったのですが、それでも、自分たちにとって、の神が居なくなってしまった、という実感だけは何故か痛烈に感じる事があったからです。

もしかしたら、過去にもこの話を聞いた事があったのかも知れませんが、何故か何時頃からか、そういう事が私の知っている中にいつからか蓄積されていました。

過去にキリスト教系の学校に在籍していた頃がありましたが、この頃に接触した人々の信仰を見ていましたが、彼らの思う『神』という概念が今回の事例にされた『神』ではないのと同時に、自分自身で考える『神』とも違う、とだけ思った事がありました。…尤も、自分の神がなんであるのか、やどんなものが『神』の定義定義であるのかを、授業を聴いた今でも確定できては居ないのではありますが。

それでも、ツァラトゥストラの話や後半にあった内山先生の本やお話を聞いていると、ヒトの中にある『喪失』が少し解ったような気がしました。

世界は近代化の路を辿り、其の中にあった人々と、自然と、世界と、国家の繋がりの変化によって『散逸』してゆく『存在』…人々の『意識(精神)』の乖離を自覚する事が、そこに『神』が既に亡いものなのだと思いました。

また、講義の中で少し触れられた、ある少年の証言「自分は透明人間である」という言葉が妙に印象に残りました。この少年の事は恐らく当時の事件で見聞した事があると思います。そして、この少年の事件の近年以降に起きた少年・少女による時節により不可解である事件の当事者たちの言葉たちにも、何処か共通したものであるといえます。

ある事件で、自身の母に毒を盛り続けた少女は「私は植物になりたい」と言ったといわれています。誰とも詞も、意志をも、交わすことなく、但、そこにある存在になりたいと、残したのだと云われます。

彼らの詞には、ヒトと自然と世界との繋がりを絶たれ、新たなコミュニティを築き上げる事の出来ない無気力に閉ざされているように感じられ、…同時に自分自身もその『自身の不在』を痛烈に感じる事がありました。

『神』との繋がりは『世界』との繋がりでもあり、その繋がりが絶たれていると知る事は、自分が何よりも『孤独』であると自分自身に知らしめて知らしめているようにも感じられます。

内山先生のお話にも少しあった、世界が、日本が、近代化(国民国家化?)していった中で失われていった『里』の思想や在り方の喪失にも伺える事とも云えるかと思いました。

先生が暮らしている上野村は、同じ群馬に住んでいる筈の私にも既に失われた世界のように遠く感じられてしまいました。
ソレは、かつてどこの土地にもあった、コミュニティであり、ヒトとの繋がりであった姿だったのに、新たなる近代国家という進化の名の下に、人々は『個々』という形に分断されてゆき、今の現代社会へと繋がっており、私自身は、この『散逸した世界』しか知る事もなく今までずっと育って来ました。

今もなお、山村や一部の村には『里』というコミュニティが残っていて、村社会として、地域社会という呼び名でも少しだけ残っているのが伺えます。  

『村社会』という言葉は、いまも残り、その多くは十年ほど前の頃は悪習としてのイメージで云われていた事があったように感じます。  

事実、この『里』というコミュニティの中には閉鎖的な要因もあり、其の中には厳しいものもあり、その総てが正しいとは残念ながら思えない事があったともいいます。  

だけど、その閉鎖的な世界の中に、個々の意識の繋がりと、世界…『神』が確かに、存在していたのだと思います。  『神』はいったい何だったのだろう。

今も、そう思う事がたくさんあります。『情報化社会』という現在に流されながら、無為に焦燥感と喪失感に囚われている自分自身には、その『神』を実感することは出来なくて、ただ、迷い続けて、新たに『神』を捜す事も、そして、自分自身が流されたまま、この永劫回廊の中で途を見つけて、自分の、人の、『真実』を見つける事が出来たらと思います。

昔の世界にあった、里の文化、繋がりは今のこの時には再現する事は出来ないと思います。

それでも、『かつて』の中から自身と世界を繋げる途を作り上げて、そこから失った『神』と…亡くしてしまった『自分自身』を創り出していくことが出来るのか、見直していけるのか、それを具体的に考えつく事はできませんが。

今の分断化した世界の中のわずかの繋がりを撚り上げる努力を考えていきたい、と思います。

それが、自分自身が、人と人が、本当の人間の成長に繋がるように。