【2008年度哲学b・東京】 里の中の幸福感

【2008年度哲学b・東京】

「里の中の幸福感」






私たちは今、幸福であるのか、それとも幸福ではないのか。

物質的に豊かな国に暮らす私たちは、日々の生活に困らないという点で、やはり幸せだと言えるのではないだろうか。しかし、『「里」という思想』の著書の中で内山先生は、私たちは幸せであるかどうかということ以前に、幸福を“感じられない”と述べている。戦後、惜しみなく働き、経済は目覚ましい発展を遂げた。その結果、日本人はもっと幸せになっているはずであった。けれど現実はそうではなかった。何か虚しく、どこかリアルではない毎日。今の喪失感を充実感に変える答えが、「里=ローカリズム」にあると示されている。私たちはいったい何を見失ってしまったのだろうか。なぜ幸せを感じられなくなったのだろうか。

内山先生の述べる“里”には、単に古里、田舎という事ではなく、得体の知れないグローバル化に対抗する、古くて新しい社会のシステムを表す意味合いがある。けれど、レポートではあえて“里”が連想させる、風景から、問題を捉えたいと思う。

上野村について著書のなかでは、なぜ気に入ったのか、その理由をはっきりとは述べられないと書いている。幸福感というものに実態がないのと同様に、上野村にあるその答えにも実態はなく、確かに存在するのだが、言葉にして説明できるようなものではないからではないだろうか。

現代の都市での生活は、あらゆる物質と、刺激にあふれている。東京という都市は特に、日々めまぐるしく誕生と進化そして消滅を繰り返す、変容の激しい都市である。ある人は、これを世界でもっとも刺激的な都市だという。より便利により新しく、変化していくことが求められる流れの中で、私たちは過去=文化を次々に失っている。街の中には、文化の破片と残骸だけが置き去りにされ、もはや繋ぎ合わせて、それが何であったのかを窺い知ることも困難である。

また、他の文化を取り込むのも得意であることから、至る所に~風の建築、公園、店舗などを見つけることができる。もはや日本の伝統でさえも、日本風として同様にアレンジされる。

ないものはないほど、あらゆるものが生みだされ溢れている現代だが、唯一、消えて失っているものが、歴史、文化である。歴史や文化は、教科書の中に存在するものではない。空間のあらゆるところに存在する価値である。私たちはそれを肌で感じ、それが持つ過去に思いをはせ、先人を想い、そして自らを確認する。すなわち、どんなに見た目に美しくても、過去を根こそぎ摘み取られた現代の風景は、一時の満足感は得られたとしても、何か心もとない、地に足がついていないような感覚を覚えさせるのだ。自分がどこから来て、どこに流れていくのか、実感として感じられないことが、幸福感を感じられないことに繋がっていると私は思う。

そして、上野村には都市では感じられなかった、歴史や文化が確かにそこに存在することを直感的に感じ取れたのではないだろうか。だからこそ、里に幸福感が存在すると言えるのだと思う。