【2008年度哲学b・東京】 「永遠回帰」について考えたこと (染織コース 荒川)

【2008年度哲学b・東京】

永遠回帰」について考えたこと

染織コース 荒川


関心はあるが、基礎知識の不足、資料の難解さ、等で、触れる機会の無かった哲学、理解しようと自ら本を読んでみても「解からない」。今回のスクーリングを機会に、自分で考えてみたかった。人生で一度くらい恥を恐れずに、今までも、理解できず、しかし気になって長い間脳の中のどこかにあった、ニーチェなるものについて、矮小化、誤謬を恐れず、勇気を持ってつたなくても記していきたい。

内山節先生の「『里』という思想」で「未来」を喪失させなければいけない、を学んだ。近代では未来は現実の延長線上にあり、素晴らしいものである可能性を持っている、努力すれば実現可能なものであるかのように考えられてきた。社会主義思想の壮大な実験はあまりに多くの犠牲を出し、資本主義は相変わらず犠牲を強いている。素晴らしき未来があると考えることが現実に無理になってしまった。

「おしまいの人間」でもいい、本当の平等が実現するのなら、美しくなくてもいい、蚤のように醜くて、畜群であろうとも、本当の平等が実現するのなら。少しばかり居心地の悪いことは何とか我慢しよう、飢えて死ぬ子供がいなくなるなら違和感はあってもそれは我慢できることに違いない。

しかし、そんな「おしまいの人間」の幻想さえも見ることはかなわないのだ。世界は侵略に満ちている。毎日、許せないことばかりだ。この世界を認めなくてはいけないのだろうか。逃げるのは嫌だ。今どこに立っているのか、どこを見つめているのか。自分で選びたい。

大多数の人間にとって、この世は辛いことのほうが多いだろう。全てが永遠に回帰するとしたら、死後、神による救いは無い、一回きりならこの落とし前をつけてやるということもあるだろうか、それさえも、永遠に繰り返すとしたら意味が無い。強いものはいい、全てを肯定して生きていくことが出来る。しかし、大多数はわたしと同じ弱者ではないか。どうしたら自分の人生を肯定して生きていくことが出来るか。ここが、昔から解からないところだ。確かに、神が存在しなくて、弱いものが生きていくことは大変なことだ。神がいないならば、救いが無いものならばどうすればいいのか。やはり人生は無意味なものなのだろうか。永遠に繰り返すとしたら、そんなものは嫌だ。しかし、もし永遠に回帰するものだとしたら、無意味なものは嫌だ。苦痛ばかりは嫌だ。何か異なるものを選びたい。

ツァラトストラは、「『これは気にいった。幸福よ!束の間よ!瞬間よ!』と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切がもどってくることを欲したのだ!」という。その瞬間を欲しいし、大切にしたい。瞬間を肯定したとき、自分の人生も肯定したことになるのだから。