【2008環境文化論・津軽】 レッツウォークお山参詣に参加して (ランドスケープデザインコース 髙原さつき)

【2008環境文化論・津軽

レッツウォークお山参詣に参加して


     ランドスケープデザインコース 髙原さつき


私は今回のスクーリング対象地である青森で生まれ育った。
父は南部出身、母は津軽出身であり、特に母の故郷である弘前に行くことは幼い頃から日常的なことであり、岩木山のある景色は当然のものであった為、かつて津軽という地域に特別な意識を抱いたことはなかった。今回、京都にある大学の生徒という、かなり客観的な立場から津軽という文化に触れられことは大きな収穫になった。

平成20年8月29日、スクーリング初日の岩井康賴先生の講義は、同じ地元人間である私にはとても興味深い内容で、その中で先生の発した、「体が覚えている見えない記憶をさがす」という言葉が強く印象に残り、何か新しい発見の予感とともに、スクーリング中の自らのテーマとして掲げることにした。

8月30日、レッツウォークお山参詣の半纏に身を包み、3メートルくらいもあるカンナガラを持ち、岩木山神社までの6キロの長い道のりの中、登山囃子を唱和し祭りに参加しつつも、自分は完全に祭りの部外者だという感覚、違和感が常にあった。

岩木山を囲む土地の人間と神との対話のようなこの祭りでは、深夜に及ぶまでの登山囃子が賑やかに奏で続けられ、その後岩木山山頂の奥宮を登拝し、そしてご来光を拝むのである。とても色濃い文化がそこにはあった。この祭事へ参加できるのは、岩木山を毎日眺めることのできる者にだけ与えられた特権であるようで、そうでない者は容易に足を踏み入れることができないことのように感じたのである。

しかし、いつまでもこの祭事がかつての形のまま継承されていくことは困難であろう。純血の人間だけが祭りをつくりあげていくには限界があるように思う。文化を守る為にはつなぐ努力をしなければならず、その為には手を加えることも必要なのである。文化においては、触れないことが壊すことだという。

レッツウォークお山参詣はあくまで観光協会主催の体験型ツアーであり、神社側として重きを置いたものではないという話しがあったが、このツアーは実は大切な祭事を守り続ける為の一環であるという意味を持っているのではないかと私は考えた。

それでは、自分の体が覚えている見えない記憶、自分に許された文化は何かと自問したところ、やはり守っていかなければならないものがあると改めて気付いた。

ゆかりの意味をさがしながら、それぞれの土地が生んだ文化に触れることは自分をより知る機会になることを学んだ。境界があって初めて自分を知り、自分の抱えたルーツ、文化、蓄積された時間を恥じることなく認めて生きていかなければならず、またそのことを知りながら生活している人間に、強さ、潔さを感じている。

今回参加した祭事はあくまでもお山参詣の体験型ツアーという軽い表現で片付けられてしまいそうだが、文化を守っていく為、そして私のように自分の文化について考えめぐらす機会になるのであれば、とても意味のある行事のように思う。

少なくとも私は岩木山を見るたびに、この登拝行事を思い出し、自らの使命を思いかえすことは当然に感じる。

せめて岩木山を眺めて生活している人々には、岩木山を思う気持ちを持ち続け、この色濃い文化に触れることを願い、それは形を変えて自分への課題でもあると気付き、充実したスクーリングの時間を過ごすことができた。