【2008環境文化論・津軽】 岩木山お山参詣の意義と将来 (歴史遺産コース 澤田)

【2008環境文化論(津軽)】

岩木山お山参詣の意義と将来


平成20年9月22日

歴史遺産コース 澤田京子





 はじめに

 岩木山は霊山として古くから信仰を集め、お山参詣が盛んに行われるようになったのは、元禄時代といわれる。旧暦7月28日から旧暦8月1日にかけて行事が営まれ、参詣者は岩木山を取り巻くそれぞれの集落ごとに隊をなし、唱文を唱えながら歩く。山頂にある岩木山神社の奥宮に参拝した後、山頂で日の出を拝めば果報を授かるといわれる。
 今回、私はこのお山参詣の「山かけ」を体験する機会を得て、滅多に味わうことの出来ない楽しい経験をさせて頂けたことに感謝の念を抱いている。だが同時に、「レッツウォーク」の出現は現代における、古くから継承されてきたお山参詣の伝統の維持の困難さから生まれたものであったという現実問題を垣間見て、一抹の哀しさを覚えた。

 Ⅰ お山参詣の宗教性

 本居宣長によれば、マツリとは神に仕えまつることだという。祭りとは元来、厳粛な物忌みの状態で、神に神饌などを献供することであった。現代においても、祭りの中心にいる人々は、一定期間の籠りや禊を行うなどの宗教性や強い信仰性を持って真摯な態度で祭りに臨む。
 藩政時代、8月1日に岩木山に参詣出来たのは藩主のみで、一般人は登拝を許されなかった。山頂で重要なのは、藩主や藩の重役に献上する「コケの実」の採取にあったとの記述がある。また、岩木山は女神であるがために、女性が登れば女神が焼きもちを焼いて山が荒れると信じ、明治までは女人禁制の山であった。禁制が解かれると、8月1日に郷土の誇りである岩木山山頂で日の出を拝むことを「ついたち山かける」といって大いに誇りとし、21日間に亘る精進潔斎をして身を清めた。御幣は檜をかんなで削ったものを使用し、五穀豊穣を祈願する祭りに参加する人々は皆、真剣であった。

 Ⅱ 現在の岩木山お山参詣

 精進潔斎は村の産土神か特定の宿で、1週間行われる。白装束でえりに小さな幣束を差し、参詣回数によって色が異なり、回を重ねて金色に至る点は伝統を継承している。登拝の目的として重要視されてきた「ご来光」を拝むこともまた、現在に引き継がれている。
 現在では、8合目まで車で登ることができ、様々な目的の参詣者を集めるようになった。ライフスタイルの変化に伴い、多くの御幣をかざした参詣の行列が徐々に減少するようになると、観光協会が「レッツウォーク」を開催するようになった。精進潔斎を行わない、信仰心を持たない、従来は傍観者だった人々もまた「山かけ」に参加するようになり、お山参詣のイベント化が進んでいる。

 Ⅲ 「レッツウォーク」に参加して

 現在住んでいる川口市には大きな伝統的な祭りというものがなく、地元の盆踊り以外で実際に参加した祭りは初めてであったといえる。祭りの衣装を着て、行列に加わり、御幣をかかげて唱文を皆で唱えることはとても楽しかった。しかし、御幣を持ちながら歩いた距離は意外に長く感じられ、体育会系の私でもしんどく感じた。また、従来のやり方で、各グループ単位で参詣している地元の方達とは、いたしかたないことだが隔たりを感じた。
 住民の高齢化と同時に、若者の郷土愛が薄れ、楽とはいえない行列歩きが敬遠されているのではと勘繰らざるを得なかった。少子高齢化という社会の波の中で、癒しの場である、伝統的なこのお山参詣という行事をどのように継承していくかが、大きな課題である。

 おわりに

 昨今、祭りの復興が地域起こしの観点からも叫ばれている。青森県のような地方であれば特に祭りを中心とした観光の振興に重点を置いた政策が多く取られなければならないであろう。地元のテレビニュースを見たところ、様々な祭りの映像を流し、新聞紙面でも祭りの情報に多く紙面をさき、観光客数の減少を報じるなど東京地域では滅多にみられないような、観光産業依存の地域性が垣間みられた。
 古くはイザベラ・バードが、黒石のねぷた祭りに感動を覚えたという。国交省はビジット・キャンペーンで訪日観光客年間1000万人を目指しているが、青森県内でも、お山参詣を初めとして、数々の祭りをどんどん外国人をも交えた参加型にし、多言語に対応出来るような案内板、教育体制、宿泊体制、ボランティアの活用などの体制を整えるべきであると考える。癒しの場である日本の祭りを広く世界にも発信し、存続が図られるべきである。通訳案内士という訪日外国人客の案内をしている私も、民間外交官としてその一助となるべく、行政に対して意見を発信し、自らの精進も重ねて参りたいと思っている。

環境文化論(津軽)歴史遺産コース 澤田京子