父の生きがい (大阪 杉浦絹代さんの報告)


 父の生きがい  -- 故郷の歴史のドラマを伝えたい --

                  (2006年度『地域学』第2課題レポート)

はじめに

 自分の居住地に地域的に生きることの意義と、芸術的営みとの関係はどうかという課題を考えたときに、真っ先に私の父親、冨田寅一のことを思い浮かべた。
 父は2001年正月早々、胃ガンが発見され、自費出版から始めた集大成の本が完成するのを見ずに死ぬのは堪え難いと、自らの決断で87歳で胃ガン摘出の手術を受けた。その春に退院後、念願の本『河内今昔事典』が出来上がった。知人縁者には自ら配り、本屋に足を運び売れ行きが伸びているか確かめる日々を送った。手術の1年後の2月に88歳で亡くなった。
 マイライフ新聞社に連載を始めた1984年のころは「故郷の歴史のドラマを伝えたい」という意気込みだったのに、17年たった2001年には「いまの河内は何もかも昔の面影は消えてしまった」ということを感慨深く述懐している父。父は最終的にはどんな気持ちだったのだろうか。

一、 出版への道のり

 平成4(1992)年12月23日、『北河内いまむかし』(写真①)という本が出版された。父が初めて自費出版した本である。「私はときどき交野山に登り眼下に広がる交野原、その向うに流れる淀川、南に飯盛山、生駒連山、北西方には比叡山愛宕山が遠く浮かび、近くに男山や天王山が見える。この山野を展望しながら昔の歴史を幻想する」という書き出しである。

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写真① 平成4年12月、藤本印刷紙業社

 父は大正3(1914)年1月1日、大阪府枚方市に生まれ、松下電工(株)在職中は部内誌を、定年退職後は同社OB機関誌を編集。昭和59(1984)年より枚方・交野マイライフ新聞社に“いまむかし”を月に2回連載をしてもらっていた。そして8年後、92話を自費出版した。刷り上がった本を持って、私は枚方市の広報に売り込みに行ったところ、広報はもちろん、読売、朝日、毎日、産経、京都等の有名な新聞社の記事に取りあげられた。さらに平成5(1993)年『北河内の今昔100話』(写真②)と表題をかえて出版し、3版まで版を重ねた。


 その後もマイライフには連載を続けていたので、平成10(1998)年には101話から200話までを『北河内の今昔200話』(写真③)として出版した。掲載されている写真は、父が現地に行って自分で撮ったものだ。『大阪府誌』などを参考にして記事を書き、最後に必ず、五・七・五の川柳にした感想を添えている。父は日頃から「引っ越してきて、枚方のことを知らない人に読んでもらいたい」と私には言っていた。しかし、読者の多くは父親と同年齢、しかも枚方に生まれ育った人で、この本を読んでなつかしいという感想を話してくださったそうだ。


 父は80歳を過ぎたころから、北河内だけでなく南河内も視野に入れて資料を集め現地にも通っていた。南河内13話、中河内8話も入れて、北河内の200話とともに一冊にまとめて、東京の「叢文社」から出版できることになった。今度は自費出版でなく、編集者から『河内今昔事典』と命名してもらい、あとは刷り上がりを待っている矢先の胃ガン宣告であった』(写真④)。2001年6月に分厚い本が出来上がり、父は安堵した。我が家が購読している日本経済新聞の記事に『河内今昔事典』の紹介が載っているのを発見したので、早速父に連絡した。父は病後で歩くのもふらふらの体で全国版に載った小さい記事を我が家に見にきたことを思い出す。


 『河内今昔事典』の序文の最後に「寝ていても夢は河内のいまむかし」という川柳を載せ、あとがきには「いまの河内は何もかも昔の面影は消えてしまった。河内生まれの筆者はこの忘れられた、この国の生きさまを少しでも後世に残したいと念願して書いたのです」とある。
 ちなみに、1995年には自らの戦争体験を綴った『銃のない兵隊 中国大陸華南(広東)戦線従軍記』(写真⑤)を出版している。



二、 父の一生

 父は枚方市村野にある農家で生まれた。父が10歳のときに父親が亡くなり、父の兄が農業の跡を継いでいた。次男だった父は高等小学校を卒業すると、大阪市内に就職した。若いころは組合運動もしていた。そこで結婚をして住んでいた。ところが戦争が始まり、父は妻と娘(私の姉)をおいて戦地に赴く。そのうち大阪市内は空襲が激しくなり、残された家族は父の故郷に疎開する。父は戦地から帰って来て、大阪市内の職場を退職した。戦後も門真市にある松下電工に再就職したので枚方に住み続け、昭和23(1948)年に私が生まれた。
 父は戦前から株式投資をしていて、戦地からも母あてに株の心配をしている手紙を出している。その父が、戦後貨幣価値が急落した時代を経験し、その後、急成長を遂げた日本経済を目の当たりにした。長いサラリーマン生活を終えてやっと定年を迎えた。3人の子ども達も独立して、自分のライフワークを見つけた。それが「故郷の歴史のドラマを伝えたい」というのだ。年金生活の中で迎えたバブル経済。そのときに父は自分が持っていた土地で大儲けをした。歳を取ってから得た大金。でも、すぐにバブルが崩壊した。そこで目にしたものは「いまの河内は何もかも昔の面影は消えてしまった」のだ。お金はあっても息子の家族は遠くにいってしまい顔を見せることもあまりない。老夫婦だけの生活だったが、二人が元気なうちは老人福祉センターに通う楽しい日々を送っていた。

三、 父の本当の思い

 父は最終的にはどんな思いを後世の人に伝えたかったのかという観点で、今回改めて『河内今昔事典』を読み直した。父の根底にあるのは子どものころ見聞した「小作争議」から始まる大正デモクラシーなのではないかと思う。第43話(以下全て『河内今昔事典』による)には「大正7年あたりから大正デモクラシーの幕があいた。枚方は全国でも有名な農民運動の中心地であった」とある。有名な社会主義者である賀川豊彦の演説を父はかくれて聞きにいったそうだ。父は賀川豊彦にあこがれたそうだ。大阪市電に勤めていたころは組合運動をしていて、戦後も天皇制を批判していたし、選挙では革新派に投票して、年老いてからも社会情勢に敏感だった。
 第9話では「神武以来2000年ほどかかって農業国に開拓され、百姓の国であり続けた河内はどうなったか。昭和前期の世界大戦前までは、見渡す限り広々とした田園地帯であった。(中略)ところが今は、広大な河内平野は家々で埋まり、ほとんど消えてしまい、新しい住宅、工場、ビル街の巨大都市に変貌している。(中略)この大変革は戦後50年ほどの短期間の間に発生した。つまり筆者が生きている年代に変わったのである」と記述し、この章は「土地代が豪邸に化け建ち並ぶ」という川柳で終わっている。父の実家も私が子どものころは、典型的な農家の佇まいだったが、高度成長期に土地が売れて鉄筋の家に建て直した。さらに、バブル期に儲けたお金で父は自分の家も建て直している。

まとめ

 第1話に「河内の歴史については著名な作家や学者の作品も多い。高名な司馬遼太郎、大谷晃一、堺屋太一さん等が書いたものでもどこか共感が持てない」と書き、その理由をこの先生たちは大阪府下の生まれだけれど河内出身ではなく、大阪市内や堺市の良家育ちで高い教養があり、国家や世界を論じる大家であるが、河内百姓の根性などは縁のない階層だからと述べている。
 第131話「大正生まれの生涯」という章に、父は自分の年代の人々は男女とも死亡率が高く、犠牲をしいられた。戦後は生きるために、民主主義も共産主義も祖国復興のスローガンもそんなものはどうでもよかった。今まで生き残った大正生まれの生涯は、生きがいのあった素晴らしい人生だったのかも知れない。この章の川柳は「地獄見て天国の世をつくりあげ」である。
 自分が見聞した昔の情景と現在の様子を比較しているが、決して懐古趣味に陥っていない。学歴もなく「河内百姓の血を引く泥臭さ」が父の自負であり、その河内男の目で世の中すべてを達観していた。

                      (杉浦絹代 京都造形芸術大学芸術学科2007年度卒業)