4月24日、黒田村でお話を聞いてきました

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写真:蛭子神社の桜(京北黒田)

4月24日、黒田村でお話を聞いてきました



 4月24日、自治会長の新谷さんが機会を作って下さり、地元の人たちの話を聞いてきました。その日はあいにくの小雨。その小雨の中、百年桜が静かに咲いていました。満開です。昨日が最高だった、と地元の人は言っていました。23日は晴天だったようです。そしてあの桜守りの吉田晴吉さんが入院したということも聞きました。3月の31日のことだそうです。私たちが3月12日に、寒い中、外で長いことお話を聞かせてもらっていたのが、体に障ったところもあるのかもしれないと思うと、申しわけない気がします。寒さには、配慮をきかさなければならないと肝に銘じておきます。お元気になられることをお祈りしています。
 会の方は13時に「おうらい黒田や」で待合わせにしていたのですが、新谷さんがなかなか見えませんでした。どうやら場所が分かっているのなら自分で行けということだったようです。新谷さんは多分別の用事ができたのでしょう。お宅にもいらっしゃいませんでした。
 いわゆる「サロン」と呼ばれている会だったようです。そのサロンの正式名称はわかりませんが、宮の人が中心ではなかったかと思います。江後町のえびす神社の集会所に集まってくれていました。だれからもお名前をきかなかったのですが。11人の方が集まって下さいました。途中お一人が早めに帰られましたが。私たちが着いたときには、もう皆が揃っていて、少し待ちくたびれていたかも知れません。それでもご挨拶をして、去年にお願いしたアンケートを発展させていくためにお話を伺いたいのだと主旨を説明すると、多くの人があのアンケートのことを思い出してくれて、こころを解いてくれたように思います。アンケートの内の「宮」と「下黒田」の文の、「紙つづり」と呼んでいましたか、あのアンケートをタイプして、連続してつなげたものをお渡ししました。「上黒田」の分がわたしのパソコン上にはなく、「上黒田」の分が作れなかったのでした。それはどうなっていたのだったか?
 ともあれ、こうしてプリントアウトして綴じたものをお渡ししただけでも、少し喜んでもらえました。アンケートに答えたことが無駄にされていないという実感をもってもらえたようです。あのアンケートは、わたしたちにとってはとても貴重な宝物なのですが。
 いざ村のひとたちを前にすると、黒田村のいろいろな美しさは、むしろあたり前のことのように思えて、それについて質問をしてゆくのは難しいように思いました。実際、その日の黒田の景色も、透明感のある空気のなかで、小雨のなかの風景が、ことごとく美しいのです。まわりの山に霧の立ち、昇るさまも、自然な、正直な風景です。都会ではそんな天然の美しさに触れられることが稀になってしまいましたが、ここにはしかし当たり前のようにあるのです。その味わいなどは、口で語ってもらうよりは、むしろ物に書いてもらった方が感じ方がよく分かる気がします。アンケートに記述してもらった文章の味わい深さを、きちんと捉え直すことをわたしたちがしなければならないのだと思います。そしてそこからさらに、この村でされている文芸についてお話をうかがってゆく、ということができると思います。
 話のきっかけは正月の「納豆餅」のことから始まりました。むしろ「納豆巻」と言ったほうがよいもので、奉書のように巻いたものを正月三箇日に少しずつ食べてゆくのだそうです。主婦が働かなくてよいように、三箇日の食事はそれだけだそうで
す。その作り方について説明してもらいました。この1月には4チャンネルで取り上げられ、放映されたそうです。今度実演してくれるということです。
 それから今度はその餅にからんで、お米作りの一年の話です。この自分たちの一世代の間で大きく変ってしまったということ。昔は各家で牛を一頭ずつ飼っていたそうです。そして同じ屋根の下で、寝ていたのです。三段階の田起こしの労力とし、また堆肥の原料として、そして年老いてからは食料として。雄の牛を使っていたそうです。金抜き(去勢)をして。それでも最初に田に入れるまでが大変で、一度入って仕事になれてくれれば、次からはそんなに苦労はなかったそうです。
 苗作り、田植え、草取り、そして収穫から精米まで、たくさんたくさん話してくれました。唐臼を使っていたというのは予想外でした。尋ねなかったのですが、「バッタリ」はどうやらやってなくて、足踏みばかりだったようです。それはこどもの仕事だった。ハザ(稲懸)は八段四間のものが標準だったようです。八段というのはかなり高い。山国で日照時間が短いための工夫でしょう。この昔の農作業についてみながこぞって語りたがっているのが印象的でした。この黒田では、米作りはそんなに大きな比重をもっていなかったのではないかと思っていましたが、そうではなかったようです。もっとも米作りの仕事は、田起こしを除けば女の仕事で、男はみんな山に入って林業をやっていたようです。男らしくて、収益もよいということのようです。その男の方の気持ちがよくわかる気がします。そんな風で、昔から兼業農家だった。昔は、反当たり二石とれればよい方だったということです。各家の田は平均二反程度。そうなると米だけでは生活は難しいと思います。
 また、納豆は実はこの辺が原産地なのだという伝承があるようです。昔、常照光寺でお坊さんが保存していた大豆を腐らせてしまって、糸を引くようになってしまって、それをどうにかして食べれるように考えて、納豆を食用にすることを考えついたということです。だから、水戸の方に遊びにゆくと、自分たちは納豆の発祥地から来たのだぞと自慢するのだそうです。正月食として納豆餅、納豆巻がつづいているところからすれば、この京北が発祥地だという説はほんとのことのように思えます。大豆は昔から作っていたわけです。最近減反政策で米が作れなくなったときにも、みなそこに大豆を植えていたそうです。この大豆のことについてももっと聞きたいと思っています。

 取り急ぎノートも見ずに、録音もきかずに、頭の中に残っていることの要点だけをご報告します。他に、飛騨地方をはじめおそらくかなり広い範囲で「結い」と呼ばれる共同作業もしくは労力の貸し借りのことを言う決まった言い方があったそうなのですが、その他、気づいた点を後日ノートを見て補足します。

                                          中路正恒