血族の鎮守 (岡山県 仁城亮彦さんの報告)


血族の鎮守



■はじめに
 ぼくの住む山村の集落(岡山県井原市青野町仁井山)にはいくつかの小さな神社がある。現在もそれぞれで年に何回かの祭典が行われている。その規模は小さなものだが、確かに「信仰」あるいは「まつりごと」として続けられている。ここでは我が家がもっとも身近に関わる神社について家族から聞いたことなどをまとめることとする。自分にとって、あるいは「家」にとって「この・信仰」や「この・まつりごと」がどのような意味を持つものなのか考えたい。






■血族の鎮守
 この小さな神社(写真1)の名前は「貴布禰神社(きふねじんじゃ)」という。京都市左京区にある貴船神社の分霊により文明年中(1470年)に勧請され、仁城家グループの鎮守として祀られている。京都の貴船神社の公式HP「貴布禰総本宮 貴船神社」(http://貴船神社.jp)によると、分霊として[貴船神社貴布禰神社木舟神社も含む)]と称する神社は、宗教法人に登録されている神社だけで全国に約500社あるというから、このような無名のキフネジンジャは星の数ほど存在していることだろう。
 「貴布禰神社」は、総本宮が「水の神さま」として信仰を集めているのと同様に、やはり農家の集まりとしての仁城家グループの水神として祀られている。写真2のように、社殿の裏の山肌には巨大な岩が突き出ており、その下に素焼きの甕(写真3)が置いてある。かつては日照りが続けばこの甕の口を上にして雨が降るように、また長雨が続けばそれを下にして雨が止むように念じて祈祷を行ったという。現在は畑灌漑用水路が整備されたので、そういう祈願をすることはない。
 現在の「貴布禰神社」の社殿は明治36年に再建されたもので、その後は昭和48年に屋根の修繕を行っている。また10年ほど前にも瓦屋根を銅板屋根(写真4)に変更し傷んだ箇所の補修も行った。社殿が建っている場所は、いくつかの仁城家の共同所有として登記されている土地である。
 この辺りでは、血縁的関係のある家の系統を「株」と呼ぶ。仁城家の血縁グループは、初代の屋号を用いて「岡田株(おかたかぶ)」と呼ばれている。つまり「貴布禰神社」は「岡田株」の鎮守である。「株」は農作業を中心にした協力関係のあるグループで、「家」の次に大きい共同体の単位である。かつての生活は仕事、信仰、血族が一体となった人間関係によって成り立っていたが、現在は、各家がほぼ独立して専業あるいは兼業の農家を営んでいる。
 岡田株は初代の岡田(おかた)から、岡仲(おかなか)、岡上(おかうえ)、大久保上(おおくぼうえ)の3つが分家して、そして岡仲から大久保下(おおくぼした)、西ヶ市(にしがあち)、上田(うえだ)、そして我が家の藤屋(ふじや)が分かれ、さらに藤屋から今市(いまいち)が分かれたことで、最も多かった時は9つの屋号があった。しかし現在人が暮らしている家は岡仲と藤屋と今市の3軒のみとなっていて、その他はこの山村を降りてしまい、無住の家となり、中にはそのまま廃屋となっている家もある。また今市も名字は仁城だが街に移住しており「貴布禰神社」の行事には関わっていない。したがって、実際には岡仲と藤屋の2軒で神社行事の当番を回している(というか交互である)。
 さて祭典は、毎年恒例で夏(旧歴6月13日)と秋(旧歴11月13日)に行っている。株内の新年会もまずは「貴布禰神社」にお参りする。
 祭典の前には、当番の家が社殿の周りを掃除をする。秋は特別に周辺の竹や木を切ったりなど作業が大がかりなので、各家から2人ずつ出て共同でおこなっている。また当日のお供え物や飲食物、子どものための菓子なども準備する。当番は1年で交代する。
 当日は注連縄を換えて、御神酒、ごっくう(炊いた米)を供え、祝詞(のりと)をあげる(藤屋が代々宮司を代行している)。その後当番の家で会食する。昼食から夕食前まで、それぞれの家の主人たちが長時間よっぱらってうだうだウダウダ話をする。今年の農作業のこと、家族のこと、旅行や魚釣りなど遊びに行った話、自分の昔話(自慢話)、地域のうわさ話など、日常の話をしながら一升瓶が空になるまで続く。ただし、祭典から次の祭典までの間にそれほど時間もなく話題も大して多くはないので、たいていは酒に酔った年配者の昔話(自慢話)が繰り返されるのが常である。祭典の実態はどこも同じようなものだろう。


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写真5 御神体のほこら(中央:貴布禰神社、右:藤屋のしんぐうさま、左:岡仲のお稲荷さま)

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写真6 瓦宝殿と甕(手前:祖父が置いたもの、奥の2つ:株外のもの)


■「この・血縁」についての再考
 調査を始めてまもなく気づいたことであるが、近所の神社のいわれや由緒について積極的に知識を持とうとするのは、藤屋だけのようである。そもそも当事者にとって「この・信仰」とは、特定の神様についての知識を築いたり、神様を具体的に感じる経験をしたり、それらを血族で共有することが目的ではない。そういった「文化的・精神的な営み」は「この・信仰」の外に置かれている。「この・信仰」とはとにかく決まったメンバーで行う毎年の行事(飲み会)であり、家同士のコミュニケーション基盤の維持である。さらに、そのネットワーク(といっても今は1対1だが)は外に対して閉じており、また参加するすべての家にとって価値が等しいわけではない(祭典の後に酔っ払う人物と彼の話を延々と聞かされる人物は決まっている)。また、法的には戦後すでに無効になっている〈本家/分家〉の制度が、「家」の人間の無意識に残っているのが明らかになることもあり、その意味では、祭典は不平等なコミュニケーションを再生産しているといえる。これらは「この・信仰」「この・まつりごと」の本質ではないかと思われる。調査の過程で祖父の記憶を頼りに家系図を書いてみたところ、そこから「この・不平等感」を裏付ける次のような事実も明らかになった。
 藤屋は岡仲からの分家である。ただし、岡仲から分かれた「豊作」(ぼくの祖父の曾祖父で山伏であり宮司であった)は生涯単身で子がなく、部落内の別株の家(屋号:仲前(なかめえ))から女子を、また隣部落にある家(屋号:宮原(みやはら))から男子を養子にもらい、その二人を結婚させている(トリコトリヨメと呼ぶ)。その息子「栄作」から「市作」そして祖父へと続く家が藤屋である。したがって、藤屋は(最初の豊作をのぞいて)岡田株の純粋な血縁関係内になく、全く新しい株といってもいいのだ。しかし、藤屋は岡田株となっている。つまり、本来血縁にない家を血縁に含めてしまうのが「この・まつりごと」の「Power」なのだ(現在はかなり微弱な「Power」ではあるが)。
 ところで社殿には「貴布禰神社」のご神体の他に、岡仲の先祖が持ち込んだ「お稲荷さま」と、藤屋の先祖が持ち込んだ「しんぐうさま」が合祀されており(写真5)、また神殿の裏には先に書いた甕以外にも瓦宝殿が3軒分集合していて(写真6)、何やら複雑な家々の事情が交差する場所になっている(瓦宝殿にはなぜか株外の家のもの2つが含まれていて、祖父(90歳)も事情を把握できないらしい)。
 実は「貴布禰神社」に「しんぐうさま」を持ち込んだ張本人は「豊作」である。彼は「Power」を使って、岡田株からの「分家」ではなく新しい「株」を作ろうと企てたのかもしれない。
 中央の権威の〈コピー〉で勧請する「神社」システムが持つ「Power」が、地域に強力な「社会秩序」(=血縁による統治)と「社会無秩序」(=神様の衝突)を生じさせ、自然として存在する家々のエコロジカルな「ほどほどの秩序(あるいは断片化)」の可能性を大きく損なってしまうことは大変興味深い。これらは継ぐべき家のある地域で、エコに生きるとはどういうことかを考えるヒントになりそうである。いずれにしろ、これらについては今後も個人的に調査を進めて、「この・まつりごと」や地域に存在する「その他の・まつりごと」への関わり方を自分なりに模索したい。